使の姉は愛を貫く その1


序章 天使のおねぇちゃん

 一体いつ、誰が付けたのかは知らないけれど、私の生前のあだ名は「天使」だったらしい。
「……ねぇねぇ、優奈(ゆうな)おねぇちゃんってさ、学校で“天使さま”って呼ばれてるんだ?」
「へ……?」
 初めて聞いたのは高校一年の秋頃だったか、生徒会の役員になっていた昔の先輩から書類整理の手伝いを頼まれて帰りが遅くなっていたある日、帰宅してすぐに着替えるのが億劫でリビングルームのソファーへぐったりと身を預けていたところへ、妹の愛奈(あいな)ちゃんが慌ただしく二階から下りて来るや、何やら眼をキラキラと輝かせながら私に水を向けてきた。
「美佳の友達でお姉さんが同じ高校に通ってるコがいるんだけど、昼休みにおねぇちゃんが学校で噂になってるって聞かせてもらっちゃった♪」
「ウワサて……私、なにかしでかしたっけ?」
 そもそも、学校で噂される程に目立っている自覚もないんですけど。
「ほら、おねぇちゃんって昔から困ってる人を見たら手を差し伸べずにはいられないタイプでしょ?実はそのコのお姉さんも落し物して焦ってた時に助けてもらったコトがあって、声をかけられて顔を上げた時に見た慈愛に満ちた笑みは、正に天使さまみたいだったって……」
「えー……」
 そういえば、先週の放課後に家の鍵を落として泣きそうな顔で校舎を独りウロウロしてたコがいたから、落ち着いて頭を整理すればアテが浮かんでくるんじゃないかな?って声をかけた覚えはあるけど、天使て。
「他にも、おねぇちゃんって学年でも一、二を争う美人さんで、試験の成績も上位組だし、運動以外は何をやらせても器用だから憧れてる人も多くて、来年の生徒会長の有力候補じゃないかって話も聞いたけど」
「それはいくらなんでも持ち上げ過ぎだとは思うけど、ああなるほどね……」
 お手伝いしていた折に、先輩から来年の生徒会選挙に出馬したら?なんて酔狂な話をいきなり投げかけられて反応に困ったけれど、そんなコトになっていたとは……。
 あと、愛奈ちゃんから面と向かってそこまで言われるのは、嬉しいを通り越して何だか居心地も悪いし。
「……けど、そんなだからラブレターの処理に困ってるってのは初耳なんだけど、ホントなの?」
「あはは、ほんの一時期だけど登校したら下駄箱にバサバサって頃もあってね。処理に困るだけだったし、言ったらヤキモチ焼くかなって」
 まぁ、そんな愛奈ちゃんを見てみたい気持ちも少しばかりはあるとして。
「ヤキモチかぁ……んー、たしかにフクザツな感じかも……。あ、ちなみに逆にわたしが貰ったらおねぇちゃんどんな気持ちになる?」
「そうねぇ……。まぁ私に言わせれば愛奈ちゃんこそが世界一かわいいんだから、そのくらいは当然かもしれないけど、そうねぇ……」
 ……まぁ、すぐに破り捨てたりまではしないとしても、天使でい続けられる自信はないかな。
「もう、ありえないイフなんだから黙り込まないでよ……んで、次期生徒会長には立候補するの?」
「もちろんしませんて。真に受けていいお話とは思ってないし、万が一ホントに当選しちゃったら今日みたいに帰りが遅くなる日が増えて愛奈ちゃんとの時間が減ってしまいそう」
 まぁ、次の選挙に当選すれば、翌春に追いかけて来てくれる予定の愛奈ちゃんを生徒会長として出迎えられるし、一応は誰かのお役に立てるのに喜びを感じるタイプなのも自覚しているけれど、それでも最愛の妹と過ごす時間とのトレードオフだけは譲れない一線というもので。
「おねぇちゃん……」
「……ついでに、天使なんて呼ばれるのも気恥ずかしくて勘弁して欲しいんだけどなぁ……」
「え〜、おねぇちゃんのイメージにピッタリでわたしは好きだけどね?妹としても鼻が高いし」
「あはは、だったら今日からお姉ちゃんは愛奈ちゃんの守護天使になっちゃいましょうか」
 ただ、それでも一番大切な人が気に入ってくれて自慢の種にしたいのであらば、一介の女子高生の冠にいささか仰々しい二文字を甘んじて受け入れるのも「愛」というものだろう。
「おおー……それで、いつまでわたしに付いてくれるの?守護天使さん」
「もちろん、愛奈ちゃんさえ望むならいつまでも……ね」
 それに、いささか烏滸がましいとしても、大切な誰かの守護者なイメージの天使様なら自分にはしっくりとくる気もするし……。

                    *

「…………」
「……はぁ……」
 ……とまぁ、何だかんだで私自身もそういう気になっていたからこそ、こうやってあっさりと乗っかってしまったのかもしれない、けど。
「……ふん、相も変わらずここにいただわさか、優奈……いやさメタ子」
「ここにいたのかって、他に行くアテがあるとでも?……あとメタ子はやめて欲しいかなぁ」
 やがて、いつもの如く天空に聳える塔の片隅に腰掛けつつ星空を見上げていた最中、不意に届いてきた独特の口調の声で孤独に満ちた静寂が破られ、眼前の空間に姿を見せてきた幾重にも重なる純白の翼を纏う小柄の少女へ向けて、私は素っ気無く肩を竦めて見せた。
 ……しかし、相も変わらずというのなら、このぼさぼさ頭の同僚の方も顔を合わせるたびに言ってきたのに身だしなみが無頓着なままだけど。
「ならば、トロ子の方が良かっただわさか?……まったく、未だ慣れていない新米なのを差し引いても、こんな引き篭もりがちな天使は初めて見ただわさ」
「あはは、お願いだからトロ子はもっとやめて……だけど、これが私の役目なんでしょう?」
 それから、呆れた仕草を見せつつ、もっとヒドいあだ名を付けてくる智の番人へ私は苦笑いを返した後に右手を翳し、星空へ向けて無数のスクリーンを全方位に表示させると、天界や人間界のあらゆる場所の風景が同時に映し出されていった。
「ほーら、ちょっと休憩してたけど、ちゃんとお仕事もやってますって」
 何より、こうやって自分に課せられた義務と権利を誰の目も気にせず行使できる場所なんて、天界広しといえどそうそうあるものでもないし、“ここ”が私の居場所であり職場のはずである。
「そうやって、飛ばした眼に映った映像を眺めているのが役目の全てとでも思っているのならば、勘違いも甚だしいだわさ。……お前さんが偉大なる“主”より与えられし天界で最も数の多い翼は飾りなどではないだわさよ?」
「それでも篭の中の鳥に違いはないし、そんな中での翼の優劣に意味なんてあるのかしら?」
 ちなみにここは、天界中枢区の遥か上空に存在する、エデンの塔の頂上。
 眼前の彼女を含めた七大天使達の結界で護られたこの唯一神の居城は、天界で最も高く聳える神殿であり、私が佇むこの頂きからは中枢都市の夜景が一望出来ていた。
 当然ながら、この絶景を望むことが出来る者は、天界でもほんの一握りだけなのだけど……。
「……まさか、今更になって後悔してるなんて言わないだわさ?」
「いえいえ、さすがにそこまで愚か者じゃない……つもりだけどね?」
 確かに、私は自分の意思で神と契約を交わし、今はこうして一定の望みも叶えて貰っている身なのだから。……ただ。
「…………」
 それから、刻々と変化してゆく無数の映像の中で、自室のテレビの前にちょこんと座り、空ろな表情で黙々とゲームで遊んでいるパジャマ姿の愛くるしい女の子を注視しつつ、私は心の中で言葉を続ける。
(……それでも、少しばかり早まったかな?って気持ちも片隅には残ってるんだけどね)
「…………」

第一章 未練

 ――あの日の愛奈ちゃんは、午後になってもまだ少しばかり引きずっている様子だった。
「は〜、やっぱり本格的に降り始めたねー、愛奈ちゃん?」
「……うん……」
 予約していたレストランで楽しくも少しばかりぎくしゃくとしたランチタイムを終え、クリスマスならではの浮かれたムードに包まれつつ次の目的地であるショッピングモールへ向かう途中、店を出る少し前から降り始めていた天よりの粋な贈り物に私が白い息を吐きながら顔を上げると、少し遅れて付いて来ていた愛奈ちゃんも小さく頷き返してくる。
「…………」
(あああもう、仲直りってこんな難しいものだったのね……)
 一応、わだかまりは昨晩に決着して本日は楽しい楽しい仲直りのデートのはずだったのに、やっぱりまだ元通りには程遠い状態。
「……でも、思ったより降り方が激しいし、傘差した方がいいかな?ほら、愛奈ちゃんおいで」
「い、いいよ、どうせそんなに長い道でも……」
「とか言ってるうちに、コートの上から雪だるまになりかけてるのは私の気のせいかな?」
「う〜〜っ……」
 ともあれ、それから私がポーチに忍ばせていた折り畳み傘を広げて手招きすると、条件反射的に少しだけ抵抗を見せた後で、気まずそうにすぐ隣へと歩み寄ってくる愛奈ちゃん。
(うーんー……)
 一応、来てくれただけはマシとして、それでもこちらが手招きせずとも自ら駆け寄って嬉しそうに腕を絡ませてくるのが当たり前だった以前の日常と比べれば、私の方も空漠たる思いがいつまで経っても解消されなくてつらい。
(は〜〜……っ)
 元々、二人でひとつなんて言われていた位の仲良し姉妹だった私と愛奈ちゃんがこんなにも余所余所しくなってしまったのは、相手の為を思えばこその感情のぶつかり合いが原因なのだけど、最初は些細なものだったはずの火種が初めての本格的な姉妹喧嘩にまで拗れて大きく燃え広がってしまい、一応は鎮まった今でも存外にしつこく燻り続けて、なかなか完全に消えてはくれないみたいで……。
「……なに?じっとこっちばかり見て、行かないの?」
「あ、うん……えっと、愛奈ちゃん大丈夫?寒くない?」
「だ、大丈夫だから……っ」
 それから、躊躇いがちに近付いてきた愛奈ちゃんのコートに積もっていた雪を私が落としてあげようとするも、やっぱり慌てて払い除けられてしまう。
(ううう〜〜っ、そろそろ触らせて欲しいんだけどなぁ……!)
 結局、今まで仲が良すぎたのが今回は仇となって、逆に仲直りする方法も互いに分からないまま無駄に長引いてしまっているのだけど、何だかんだでこんな状態がもう一週間以上続いてしまっている為に、出来る限りの平静は務めつつも、私の方は限界が近かった。
(さて、どうしたものか……)
 いずれにしても、これからせっかくイブの夜が控えているというのに、なんとかこのデートで完全修復しておきたいのだけど。
 ……それに、喧嘩した後に待つのはとびきり甘い時間とも聞くし、上手くいけば修復どころか今まで踏み込めなかった一線すら越えるチャンスかもしれないワケで……。
「…………」
 一応、既に用意してあるクリスマスプレゼントとは別に、今向かっているモール内のお店で愛奈ちゃんが欲しがっていたゲームソフトを買ってあげて機嫌を取るのも選択肢だけど、それもちょっと露骨すぎな感じがするし、そもそも喧嘩の発端がゲーム絡み。
(んー、それとも和解の証に二人で楽しめる様なものを一緒に選ぶとか……)
 ただ、今の余所余所しい愛奈ちゃんが素直に受け取ってくれるかも怪しいもので、やっぱりもう少し心をほぐしてからの方がいい気はするし、何より愛奈ちゃんが自慢にしてくれていたおねぇちゃんとして卑屈になる姿など見せたくもない。
(うーーんーー……っ)
 となればやっぱり、そろそろガツンと言った方がいいんだろうか?
 でもなぁ……。
「……は〜〜っ……」
「……お姉ちゃん?」
 ともあれ、傘を片手に頭の中を堂々巡りさせてゆくうちに図らずもため息か零れてしまい、愛奈ちゃんが不安そうな視線を上目遣いで向けてくる。
「……っ、あ、えっと……」
 ……しまった、やっちゃった。
 いや、そんな顔もまた可愛いんだけど、ここは何とかはぐらかさないと……!
「……お姉ちゃん、やっぱりまだ怒ってる……?」
「…………っ?!」
 いや、全然怒ってなんてないしっ、むしろ……。
「あ、愛奈ちゃんこそ、まだ今朝からずっと引きずっている様に見えるけど……?!」
 そこで、焦った上にひとの気も知らないでと遂にカチンときてしまった私は、らしくもない態度で最低の受け答えを返してしまう。
「……っ、べ、別にわたしは引きずってなんか……!」
 すると、同じく感情的になった愛奈ちゃんは私から一歩後ずさって泣きそうな顔で言い返してくるや、踵を返して駆け出して行ってしまった。
「あ、愛奈ちゃん、待って……っ!」
 これじゃ完全に元の木阿弥……。
(え……?)
 いや、そんなコトより……っ?!
「なによ、もうお姉ちゃんなんて……!」
「違うっ、前を見て……っ!」
 それから俯いたまま闇雲に走り出した愛奈ちゃんが交差点に差し掛かろうとした矢先、信号が変わる寸前で強引に曲がってきた大型のトラックが横滑りを起こしたのが見えた私は、最悪のタイミングでこちらへ振り返った愛奈ちゃんへ慌てて呼びかけたものの……。
「……わ……っ?!」
 遅れて視線を戻した愛奈ちゃんは、迫り来る鉄の塊を前に逃げるより立ちすくんでしまった。
(ダメ……ッッ!!)
 そこで、ここからすぐ後に起こりうる悪夢を直感した私は駆け出す脚に全力を込め……。
「…………ッッ」
「…………?!」
 自分でも信じられないくらいの力が沸いてすぐ側まで追いついた私は愛奈ちゃんの腕を掴み、追突コースから外れる方角へ放り投げるようにして突き飛ばした。
「おねぇちゃ――?!」
 ……それから程なくして、愛奈ちゃんの叫びが途中で掻き消え、時間が止まってしまう。
 微かに残った意識の上で見えた愛奈ちゃんの蒼ざめた顔から、間違いなく跳ねられてしまったんだろうなとは認識しつつも、全身は凍り付いたみたいに動かなくなり……。
「…………」
 何故かゆっくりと感じられた時間と共に、愛奈ちゃんとの思い出が走馬灯のように浮かんでは消えつつ、幕を下ろすかの如く私の意識は閉じられていき……。

                    *

「…………」
「…………」
「…………」
(……あれ……?)
 やがて再び気が付いた時、私は見たコトも無い不思議な場所にふわふわと佇んでいた。
(ここは……?)
 前方に映るは、遥か遠くまで広がる雲海の上に、途方もなく巨大で荘厳な塔の入り口。
 見る限り、どうやら空の上っぽいけれど、辺りを見回そうにも何やら視界の端がキラキラと眩しい上に手足の存在感もこの場へ立っている感触すらなくて身動きがとれず、どうやら私もよく分からない発光体な状態で浮いているらしい。
(まさか、これって……)
「……導かれし高潔なる魂よ、偉大なる我らが“主”の治める天界へようこそ♪」
 ともあれ、まずは途方にくれかけた矢先に上空の方から人懐っこい歓迎の声が聞こえてきたかと思うと、私の眼前へ幾重にも重ねられた神々しい輝きを放つ翼を纏った者達が次々と舞い降りてきた。
(わ……?!)
「ふふ、流石は“主”の御眼鏡に適っただけあって、澄み渡った輝きをお持ちですね?」
「死して天へ昇る人間は数多にあれど、此の場へ召された魂は実に久方ぶりだわさな。まずは“主”に代わり、我らが歓迎を表する次第だわさ」
 そして、まずは私の正面に降り立って来た、びっくりする程に綺麗な顔立ちをした長髪の金髪女性が見た目のままといった天使の笑み(エンジェリック・スマイル)を浮かべてお褒めの言葉を向けてきた後で、続けて隣に降り立ったぼさぼさ頭の小柄な少女が冷静な口ぶりで補足気味に重ねてくる。
(天界?……それに魂って……)
「……しかし、その輝きの色は御剣の候補としては異彩とも言えようが、これも“主”の御意とあらば期待せざるを得まいよ」
「んふふっ、正しく恋する乙女の波動ですよねぇ?私は大好物ですけど♪」
「まぁ、今まで居なかったタイプなのは確かみたいだわさが……」
(…………)
 それから、興味津々といった様子ながら好き勝手な言葉を浴びせられつつ、そこはかとなく現在の状態に合点はいったものの、それよりも気になるのは私の前に現れた老若男女なヒトの形はしているけど明らかに同じ人間じゃなさそうな七人全員の頭の上には、翼と同じ輝きを放つ輪っかが浮いているということ。
 今まで実際に見たことなんて無かったとしても、自分の知識で彼女たちを表現するのなら、いわゆる「天使様」になるのだろうけれど……。
(えっと、やっぱりここって噂の天国……?)
「……ま、アンタ達の世界観で言えば、そーいうコトになるかしらね?」
 そして、今いるこの場所への結論を声には出せない状態のまま呟いたところで、まるで思考を読んだ様なセリフと共に、今度は何処からともなく全身を発光させつつ背中に翼を生やした手乗りサイズの可愛らしい女の子が私のすぐ前へと姿を見せてきた。
(なに、今度は妖精さん……?)
「こいつは便宜上の姿でそんなんじゃねーわよ。そもそも、天界に妖精はいないっての」
(いないと言われても、今目の前に……)
 確かに、改めてよく見れば妖精さんというよりもミニチュア天使さまなのかもしれないけれど。
「……んで、今こうして出迎えてるこのコ達は、唯一神の寝所であるこの“エデンの塔”を護る七大天使たち。場合によればアンタも長い付き合いになるかしらねー?」
(うーん、そう言われましても……)
 というか、やっぱり思考が読まれているみたいだけど、妖精じゃないなら何なのだろう?
「ま、あたしが何なのかは追々気づくだろうけど……って、今のままじゃこっちが一方的に喋ってるだけでやりにくいわね……ザフキエル?」
「合点承知だわさ。……ほいっとな」
 とにもかくにも、次々と非現実的な存在が現れては一方的に話が進められて呆気に取られる私へ向けてミニチュア天使さんが命じると、後ろで控えていたザフキエルと呼ばれた特徴的な口調の天使様が即座に頷くや、腕をパチンと鳴らせる仕草を見せたすぐ後でこちらの頭(?)上に軽い衝撃が伝わってきて……。
「んわ……?!って……あ、ホントに声が出た。声帯無いのに?」
 激しい苦痛などは感じなかったものの、思わず私がその衝撃に反応すると、それが今度は軽い悲鳴として発声されていた。
 ……しかも、どういう原理なのかは知らないけれど、確かに生前の自分の声である。
「今は細かいコトは気にしなくていーから。……それより、ハナシには付いてこられてる?」
「……えっと、結局のところ私は死んだ後で天国行きになったって認識でいいんですかね?」
 しかし、そんなこちらの疑問はあっさりとスルーされつつ改めて訊ねられ、私はとりあえず自分なりに噛み砕いて結論を呟く。
 どうやら、閻魔様の裁判は受けずに済んだらしいものの、ただ私にとっての天国はやっぱり愛奈ちゃんのいる現世にあったと言わざるを得ないだけに、素直に喜ぶ気にはなれないけれど。
「ま、そんなトコ。決め手となったのは愛する者の身代わりになる最上の献身行為なんだけど、これまでの所業を見てもアンタは聖人と呼べる存在だったみたいだし」
 すると、妖精さん(仮称)は素っ気無く頷いた後で、いつの間にやら手元に小さな書類の束を呼び出しつつ、「ま、アンタみたいな魂の輝きを持ってるヤツってのはホント珍しいのよ。特に今のような時代はね?」と付け加えてくる。
「いや、まぁ、それはどーも……」
 それでも、褒められて悪い気はしなかったものの……。
「……ま、特に矛先が向いていた相手に対してはそれなりの罪も重ねてるみたいだけど」
「う……そ、それも愛情行為だもん……」
 続けて痛いトコロも突かれ、思わず全身ごと視線を外す私。
 そりゃあ、ちょっと下着を洗濯してあげている時に匂いを嗅いでみたり、愛奈ちゃんと一緒にお風呂に入っている時に背中を流してあげるついでに性感帯を探ってみたり、昔はこっそりと使用済みのリコーダーに口を付けてみたコトもあったし、時には厳しく接しながらもその後でうんと甘やかして自分なしではいられないようにしようとと企んだり、あわよくば一線を越えたいとも思っていたけれど……。
「ったく、都合のいい言葉だけど、まぁそれはどーでもいーわ。……んで、そんなある意味異常なまでに一途で献身的な魂の輝きを持つアンタをここまで呼び寄せたのは、ここで天使としてもう一周生きてみない?って誘うためよ」
 ともあれ、そんな私に妖精さん(仮称)は呆れたようなツッコミを入れつつ目を通していた資料を閉じると、改めて何やら企みに満ちた視線をこちらへ向けて切り出してきた。
「天使に?この私が……?」
 異常なまでにってのは引っかかるとしても、まさかスカウトの為だったとは……。
「そ。ニンゲンの中には天使にしてみたら面白そーな素材がたまーに出てくるんで、そういう連中はこうやって死を迎えた後に“ここ”へ招き寄せてんの」
「…………っ」
「……ってコトで、どう?ぶっちゃけ天使にキョウミはないかしらん?」
 それから、おざなりに事情を語った後で、何やらニヤニヤと確信めいた笑みを浮かべてお誘いをかけてくる謎のミニチュア天使さん。
「興味はないかと言われても……」
「こちらの見立てに間違いがなければ、アンタは比類なき存在になり得るはず。それだけの期待は込めて引き込みをかけてるつもりだし」
「……比類なき、存在……」
「だから、それに応えてくれるのなら、ある程度の特権も許してあげる。これでどう?」
「特権って……?」
「……もちろん、それはアンタ次第。とでも言えば分かるでしょ?」
 何やら、こちらの胸の内は全て見透かされた上で持ちかけられているみたいなのは、ちょっと嫌な予感がしなくもないんだけど……。
「……えっと、もし断ったら?」
「別に何も無いわよ?どの道アンタは辺獄(リンボ)ではなくこちらへ招かれるべき魂だから、この天界で次の人生を待つだけ。当然その場合は真っ新な存在となるけどね」
「まっさらってコトは、記憶なんかも?」
「とーぜん。ついでに、全部リセットされるから天使候補生としての資質も一旦消滅するけど、まぁもう今世がウンザリというのならそれでもいいわ」
 ……つまり、このまま肉体も魂も全ての死を受け入れて来世に向かうか、もしくはまだこの世に未練があるのなら、というコトか。
(……私の、心残り……)
「…………」
「ど?天使への志願は本人の意思によるのが原則だから、やる気が湧かないのならここでハナシはお終いだけど」
「……ええと、もうちょっとゆっくり考えさせて欲しいですけど、まぁそれもアリ、なのかな?」
 それから、少しの間だけ考えた末に、私は曖昧ながら肯定の言葉を返した。
 確かに私にはまだ思い残しているコトもあるし、道化みたいな仇名が付けらけていた私が本当に天使サマになるのは面白いかもしれない。
「ん、決まりね。ならば、まずアンタには新しい“器”を与えたげるわ、優奈?」
 すると、こちらの了承を受けてミニ天使さんは喜ぶ代わりに素っ気無い言葉で話を続けると、魂状態の私のすぐ前まで近寄り、頭(?)の辺りへ手を伸ばしてきた。
「器……?」
「天使になるったって、肉体が無けりゃどーにもならないでしょ?ま、悪いようにはしやしないから、安心して眠ってなさいって」
「あ、ちょっと待って……!その前に、結局あなたはいったい……」
「あたし?次に目が覚めた後にはエルビッツとでも呼べばいいわ」
「エルビッツ……?えっと、ちょっと長いからエルでもいい……?」
「……ま、好きになさいな。んじゃ一旦おやすみー」
「…………っ」
 それから、エルのおやすみの後で、私の意識は再び遠のいていき……。

                    *

「…………」
「…………」
「……ん、んん……?」
 やがて、どのくらい昏睡していたのかは知らないとして、再び目覚めた時は何やら病院の手術室のような部屋のベッドに横たわっていた。
(横たわる……?ああ、そっか……)
 そういえば、一度死んで肉体を失った私に新しい”器”を用意してくれると言ってたっけ。
(器、ね……いや、それよりなんていうか……)
 久方ぶりに背中からは物に触れている感触が伝わってきていて、肩口からは愛奈ちゃんお気に入りだったストレートロングの黒髪が伸びているし、視界の先に見える手足の指先もしっかりと動いている、この不自然なまでに自然な感覚は……。
「……お、ようやく目が覚めたわね。気分はどーよ?」
「どう、と言われたら……なんていうか生き返ったみたいな感じかな?」
 それから、横になったまま確認作業を続けていたところへエルが覗き込んできたのを見て、正直に感想を述べる私。
 ぶっちゃけ、魂だけの存在になっていたのが夢だったのかと思えているくらいに。
「ま、概ね正しい感想ね。……ほら、この姿見で確認してみたらいーわ」
「あ、それはどうもご親切に……って、うわぁ……」
 ともあれ、言われるがままに上体を起こして立ち上がり、全身を映す大きな鏡の前に来てみれば、学校の制服っぽい衣装を着た生前の私がいたりして。
「ふふん、驚いたかしら?」
「”器”と聞いたから、てっきり全く別の姿に生まれ変わるものだと思ってたけど、これはこれは……」
 一応、服を着ている状態だからヌードでの再現度はまだ分からないとしても、ただ重量感も含めて感覚的にはホントに生前そのまま。
「その方が動き易いでしょ?それとも、今度はオトコにでもなってみたかった?」
「いーえ、そういうのはちょっと……」
 まぁ、これはこれでまた未練が強くなりそうな予感はあるとしても。
「……ただし、一つ忠告しとくけど姿形こそ完璧に復元したとしても、アンタはもう人間じゃないからね?齢を重ねて肉体が老化するコトもないし」
「つまり、今後の私は永遠の十七歳、と。んじゃ、寿命って概念も無くなるの?」
「アンタが天使でいる間は無いわね。もちろん不死身というイミじゃないから、そこは履き違えてもらっちゃ困るけど」
「要は、天衣優奈そっくりの何かに生まれ変わったってコトですか、私は……」
 確かに慣れる時間もいらなくて合理的だし、正直嬉しくないこともないものの、それでもまた心の整理が難しい身体を与えてくれたものである。
「呑みこみが早いのは重畳。んじゃ次は翼だけど、既に準備は整えてるから移動するわよ?」
 ともあれ、エルの方はそんな私のフクザツな心中を察する様子もなく続けてお尻を叩いてくると、先に出口へと向かって先導してきた。
「……ああ、そういえば何か足りないと思ってたら」
 なので、とりあえずは自分の新しい両足で追いかけていくしかないんだけど。
「アタリマエでしょ?天使の翼は階級に応じて付け替えてくものなんだから」
「へー……」
「……ったく、資質があるのはいーけど、イチから教え込んでいくのは骨が折れそーね……」
「あはは、すいませんねー」
 けど、それも折り込み済みでスカウトしたはずだから、ちゃんと面倒は見てもらわないと。

                    *

「……ほら、着いたわよ?今度はココ」
 ともあれ、やがて軽口を叩き合いつつエルに導かれたのは、塔の中心部にある圧倒される程に壮麗で 浩大な礼拝堂だった。
 ただ、礼拝者用の椅子はなく、内部の造りも無数の天使の絵が天井や壁を囲んでいる以外は大きな祭壇がある程度のがらんとした空間なのだけど、静謐ながら何やら圧迫される気配も漂っていて、同じ塔内でもここは明らかに空気が違う。
「えっと、ここは……?まるで……」
「……ここは、我らが偉大なる唯一神の御前。こちらの祭壇から続く中枢に“主”の神霊が眠っておられるのですよ、人の子だった者よ」
 思わず、行儀が悪いながらもきょろきょろと見回し続ける私に、やがて奥の祭壇の傍らで幾重にも重ねられた眩い翼を広げて立っている、金色の髪を短く整え、丹精な顔立ちをした大人の長身女性の天使が鋭い蒼色の視線をこちちへ向けつつ、澄んだ声を響かせて告げてきた。
 印象的には、理知的だけど威圧感もあって美しさと怖さが半々ってところだけど……。
「神霊……?」
 もしかして、神様というのはこの前までの私みたく魂だけでカタチが無い存在ってこと?
「天使の役割とは、唯一神たる“主”より翼を介して神霊力を賜り、それを以って神の代行者として恩恵や神罰を齎し、有事の際には天界を護る剣であり盾となる事と知りなさい」
「あ、えっと……」
「ま、そういうのは追々仕込んでいくとして、おまたせミカエル。忙しいのに悪かったわね?」
「いえ……。これも私のお役目ですから」
 ともあれ、いきなり張り詰めるような厳しい視線と言葉を向けられ、どんな反応を返すべきか迷った私の側で、エルが待ち人へ気さくに労いを向けると、ミカエルと呼ばれた天使様は穏やかな表情で素っ気無く頷いた。
「ミカエルって……もしかして、あの有名な……?」
 ……ただ、私が昔に本で読んだ姿とは全然違うけれど。
「熾天使(セラフィム)達のコトなら、人間にも名前くらいは知られてるでしょ?んで、四大熾天使のリーダーであるこのミカエルは天使軍の頂に立つ総大将で、これからあんたが入学する学び舎(エンジェリウム)の理事長でもあるわ」
「エンジェリウム……?」
「そちらはガブリエルとの共同ですが……。ともかく、天使を志す全ての者はまず最初に“主”の御前で忠誠の誓いと引き換えに“はじまりの翼”と僕の証であるエンジェル・タグを授かり、その後はエンジェリウムと呼ばれる天使育成学校へと入学して必須となる知識や技能を学んで貰います」
「……やがて、無事に卒業した暁には再び此処へ戻り任命を受けるのですが、それらの授与は天使軍の長たる私の務めという事です」
 そして更に、「ちなみに、貴女が現在着ているのがエンジェリウムの制服になります」とも付け加えてくるミカエル様。
「ふむ、まずは天使の学校へ行って勉強して来なさいと」
「ついでに、アンタの適正を確認する必要もあるし。あたしの目に狂いなんざ無いハズだけど」
「あはは、私もそう願ってます……」
 まさか、死んだ後でも学生を続ける羽目になるとは思わなかったけれど、イチから学ばせてもらえるのは有難いというか、そうでなくては困る。
「では、祭壇の前で膝を付き、祈りなさい。天使としての第一歩となる翼と証を授けましょう」
「……祈るって、どういう感じで?」
「一応、宣誓の言葉は定められていて、まずはそれを覚え唱えるコトで決意表明とするのですが、貴女の場合は器を受け取った時点で意思を示したとみなしていますので、どうぞご自由に」
「アレってけっこー長いし、形式上の文言をわざわざ覚えさせる為に日を改める時間も勿体無いから、適当でいいわよてきとーで」
「はぁ……」
 何やらさっきから随分とアバウトな気もするけど、これも特別扱いされている証なのだろうか?
「ま、そーいうことでしたら……えっと、こんな感じです?」
 ともあれ、ならばと私も開き直って大きな祭壇の前で片膝を付いて跪き、結んだ両手を鼻先へと掲げて瞳を閉じると、どんな姿なのかも知らない神へ向けて祈りを捧げた。
(ええと、生前は仏様の檀家にもかかわらず、どうか抱えた利己的な未練の為に誘いに乗り天使を名乗ろうとする罪深き私をお許しください……?)
「…………」
(……つ……っ?!)
 やがて、祈りというよりも気付けば懺悔していた中で、やがて背中へ焼け付くような一瞬の痛みと、続いて胸元へ微かな重量感がぶら下がってくる。
「……授与は完了しました。さぁ、眼を開いて立ち上がりなさい」
「あ、はい……って……?」
 その後、儀式の終了を告げられて立ち上がろうとすると、何やら背中から引っ張られる様な浮力が働き、両腕の外から純白の翼の先がちらちらと覗いてきた。
「おおっと……っとっ……?」
 この場に鏡がないのは残念だけど、感覚的にどうやら無事に天使の姿になれたらしい。
 あと、ついでに胸元も確認してみると、天使の翼の形をした綺麗な石がペンダントになってぶら下がっているみたいである。
「うん、これでアンタも晴れて天使見習いね。まだおめでとーは言わないけど」
「あはは、まだ褒められるようなコトは何一つしてませんしね……」
「さて、後は学び舎への編入ですが、必要な手続きは既に済ませ、残すはタグへステータス登録するのみですので、明日からでも通学可能です」
 それから、エルの素っ気無くも心温まる(?)入門祝いの後で、ミカエル様もおめでとうの一言を省略して淡々と話を急いでゆく。
「よろしい。んじゃ予定通りに後は頼んだわよ、ミカエル?」
「承りました。それでは、早速次の場所へ移りましょうか。天衣優奈だった者よ」
「は〜忙しないなぁ……新しい身体も翼も受け取ったばかりなのに、慣らす時間も無しですか」
 というか、翼の影響かさっきと比べて何だかちょっと歩きにくくなってるんですけど……。
「甘ったれねーの。入学時期が中途半端になったからのんびりとしてるヒマなんてないし。ぼさっとしてると他の連中に置いていかれるだけよ?」
 更に続けて、「大体、このエデンの塔は戴翼式や任命式以外で下級天使が立ち入っていい場所じゃないんだから」とダメも押されてしまう。
「ええ、今の貴女はまだ一介の候補生に過ぎません。つまり最底辺の存在です」
「そりゃまぁ、そーかもしれませんけどね……」
 まったく、スカウトする時には特別な存在だと持ち上げておいて、いざ話に乗ってみれば最底辺から這い上がれとは。
「んじゃま、アンタのコトはミカエルに預けておくけど、一日も早く期待通りの姿になってここへ戻ってくるのを楽しみにしてるわ、優奈?」
「エルともここで一旦お別れなんだ?……まぁ、やるといった以上は精一杯やってみるから」
 一応は期待してもらっているみたいだし、後悔しないさせない程度には、ね。
 ……愛奈ちゃんの好きだった天使のおねぇちゃんであり続ける為にも。
「良き心がけです。尤も、私も預かる以上は容赦するつもりなどありませんが」
「んふふー、カクゴしときなさいよ?熾天使ミカエルといえば、最も厳格な大天使として天使達からも恐れられてる存在なんだから」
「……ただし、それも現在は空席の誰かを除けば、ですけど」
「ええと、何卒どうかお手柔らかにー……」
 とはいえ、これじゃしばらくは感傷に浸っているヒマすらなさそう……かな?

                    *

「えへへー、とにかくこれからよろしくお願いしますね、ミカエル様?」
「まぁ、今は精々敬っておいて下さい。もしも貴女が見込まれた通りの素材なら、いずれこの私をも呼び捨てにする立場となるでしょうから」
 ともあれ、やがてエルと別れて大聖堂から塔の外へと二人きりで向かう途中で私から改めてにこやかに挨拶を向けると、先導する全部で十二枚の翼を纏う熾天使の長はこちらへ振り向くことなく、一体どこまで本気なのか分からないセリフを自虐的に返してくる。
「いえ、それはそれで持ち上げすぎじゃないですかねーえ……」
 まったく、持ち上げられたり叩き落されたり、一体どこに真実があるのやら。
「それも、これからいずれ理解してゆくと思います。……しかし、貴女はどうして誘いを受けて天使の道を?」
「んー、どうしてと言われましても……」
「私が言うのもなんですが、天へ招かれた人間が天使の道を選ぶのは、物好きか余程ワケアリかのどちらかでしょう?」
「あー、強いて言えば両方かもしれませんねぇ。天使と聞いて何となく興味が沸いたのも事実ですし、あのまま記憶を失うには未練も残っていたしで」
 なまじ、生前に最愛の妹から「おねぇちゃんマジ天使」なんて言われていたばっかりに。
「……未練、ですか。ではやはり、それなりの意志を以って志したと解釈してよろしいですね?」
 ともあれ、そんな私の返答を聞いてミカエル様はようやく興味深そうにこちらを振り返ったものの、その言葉と視線は何やら嫌な予感に満ちていたりもして……。

                    *

「……えっと、それで……」
「どうしましたか?」
「いえ……まさか、ここから飛び降りるんですか?」
「わざわざ此処まで来たというのに、他に何があるとでも?警備上の脆弱性にもなりかねませんし、エデンの塔には内部転送装置などはありませんよ」
 やがて、横切るだけでも時間のかかってしまった塔を出て、更に巨大コースターの様な円形の雲の床を暫く歩いて渡っていた最中、唐突に「この辺りで宜しいでしょう」と数人分くらい飛び込めそうな穴を空けたのを見て直感したイヤな予感に冷や汗を滲ませる私へ、ミカエル様は素っ気なく頷いてくる。
「いや、でも……」
 途切れた雲の端から見下ろす遥か向こうは近未来的な中枢都市の街並みが広がっているけれど、その高度たるや生前に修学旅行で乗った飛行機の窓から見た風景よりも遥かに高かった。
 ……しかも、エデンの塔の周囲は七大天使の結界で穏やかになっているのは聞いたとして、この雲を一歩抜けた先は即座に吹き飛ばされそうな程に強くて冷たい暴風が吹き荒れていたりして。
「まぁ少々ハードルは高いかもしれませんが、貴女の翼でも抜けられるはずですよ?」
「少々て……」
 頂点に立つひとが言う少々って、果たして木っ端にとっての少々と同義語なのだろうか。
「では、一つだけ助言を授けましょう。天使は翼で飛ぶのではありません。心で飛ぶのです」
「……はい?」
 なに、そのもっともらしくも意味なんて無さそうなセリフ……。
「とにかく、ここで躊躇している暇などありませんし、確か人間界での諺にもありましたね?」
「ひゃあ……っ?!」
 しかし、その意味を解釈する間も与えられないまま、私はミカエル様の不意打ちを受けて弾き飛ばされる様に乱気流の中へと叩き込まれてしまった。
(しっ、獅子は我が子を千尋にって……っ?!)
 生憎、私はミカエル様の娘でもなければ、ココは千尋なんかとは比べ物にならない高度なんですけど……っ。
「く……っ、風が……うあああ……っ?!」
 ってのはともかくとして、まずは鳥にでもなったつもりで風向きに逆らって手足をバタバタとさせてみるものの、全くの無力。
 ……いや、確かに背中の翼の方も一緒に羽ばたいているみたいだから、やり方が間違っているワケでもないのだろうけど、吹き付ける強風に抗えていないのは確かである。
(お、落ち着け、私……っ)
 この高度だから地面までにはそれなりの猶予があるし、どうやら翼に込められた神様の加護なのか、自分の周囲に薄いバリアみたいなものが張られて寒さや風の影響をそれなりには軽減してくれているみたいなので、まずは冷静になって何とか考えないと……。
(ええと、天使は翼で飛ぶんじゃなくて、心で飛ぶんだっけ……?)
 もしかしたら、翼の制御は意思のチカラってコトなのかもしれないものの……。
「……うぐ……っ」
 でも、こうも強風だと上手く飛べているイメージを浮かべる余裕すらなかったりして。
「…………っ、や、やっぱりムリぃ……ッッ!!」
 っというか、いくらなんでもやり方がスパルタ過ぎるし、いざとなったらミカエル様も助けてくれる、とは思うんだけど……。
(いや、でも……)
 エルから預けられた際に容赦はしないと言っていたし、まさかこのまま墜落死してしまうならそれまでとでも思っていたりして……?
(じ、冗談でしょ……っ?!)
 一度目もロクな死に方じゃなかったのに、せっかく生まれ変わって延長戦に入ったすぐ先でそれ以上に悲惨な二度目の死を迎えようとしているなんて……っ。
「あー、もう……っっ」
(いや、まって……?)
 しかし、いよいよもって頭がパニックになりそうになったところで、ふと思い直す。
(……ああそっか、考えたら無理に逆らう必要はないんだっけ?)
 今は高高度の乱気流に巻き込まれているから死にそうになっているけど、何とか大気が穏やかになる地点まで耐え抜いて降りられれば……。
「……っ、よし……!」
 そこで思い直した後は、今までとは逆に風の流れに乗るようにして、少しでも早く高度を下げる方向に転換してゆく私。
「……く……っっ」
 ただ、それでもあらゆる方向から容赦なく襲い掛かってくる圧力が強烈で、いつまで耐え切れるかは分からなかった。
 おそらく、ほんの少しでもバランスを崩してしまえば真っ逆さまだろうし……。
(う……っっ、やっぱり覚悟だけは決めておいた方が……!?)
『おねぇちゃん、頑張って……!わたし、ずっと応援してるからっっ』
(……愛奈ちゃん……!)
 しかし、そこから受験勉強に励んでいた頃に愛奈ちゃんが必死に励ましてくれていた時の顔を思い出し、もうひと頑張りするチカラが湧き出てくる私。
「そ、そうよ……わっ、私にはまだ未練が……っ!」
 それを果たすまでは、こんな場所でいきなり脱落してしまうワケには……っ。
「…………ッッ」
「…………」
「……うわっ?!ちょっ、止まって……!」
 やがて、圧し潰されそうになりつつも姿勢を保ったまま耐え続けるうちに突如として全身が軽くなり、同時に急加速した落下を止めようと咄嗟に翼でホバリングさせるイメージを浮かべると、心臓が背中から飛び出しそうな衝撃と同時に私の全身に急停止がかかった。
「…………っっ」
「く……っ、はぁ、はぁ……っ?!」
(た、助かっ……)
「……ほら、案外何とかなるものでしょう?」
「…………」
 その後、辿り着いた都市部の中空に留まったまま息を整えていたところへ、僅かに遅れて悠々と近くに降りてきたミカエル様がしれっと言葉をかけてきたのを受けて、胸の痛みに耐えつつ無言で渋い表情だけを返す私。
「これで理解出来たでしょうが、天使の翼は自分で羽ばたこうとせずとも、使用者が空中にいる際は安定して留まれるように自動で制御される仕組みになっています。……従って、天使の翼を使いこなす上で重要となるのは、いかなる状況であろうと姿勢を保ち続ける冷静さというコトになりますが、どうやら大体の基礎はマスターしたと見立てて良さそうですね?」
「ええまぁ、おかげ様で……はー……」
 確かにそう言われれば、どうしてあの乱気流の中にいきなり私を放り込んだのかは理解出来なくもないんだけど……。
「あの、つかぬ事を伺いますけど、他の候補生も帰りにこんなコトさせられているんです?」
「無論、違いますよ?高高度飛行訓練は熟練者が対象の上級カリキュラムですし、普段は専用のシャトルで行き来ですが何か?」
「……だと思った……というか、いくらなんでも容赦なさ過ぎません?」
 まだ入学すらしていないのに、いきなり上級者向けの試練を強制してくるとか。
「生憎、今期のエンジェリウムの日程はもう佳境に入っていますし、この位の無理も通さないと他の候補生に追いつけないでしょうから」
「はー……つまり、何が何でも今期中に私を天使デビューさせるつもりなんですね……」
 まぁ確かに、こちらとしてもそれに越した事はないけれど……。
「”主”よりの厳命ですから。ただ、正直言えば私もつらいモノがあるも事実ですが」
 それから、一気に出てきた疲労感に任せて深く息を吐いてしまう私に、何やらミカエル様も憂鬱そうに溜息で返してくる。
「ミカエル様?」
「……いえ、では安定した飛行が望める様になった所で、次の目的地へ向かいましょうか?」
「次って、学び舎(エンジェリウム)にですか?」
 もうそろそろ、辺りは夕方の色に染まろうとしているけれど。
「いえ、その前にこれから貴女が滞在する住居へ案内しますから、しっかりと付いて来て下さい」
「あ、そういえば私ってまだ宿無しでしたっけ……」
 何か、それを思い出すと急に心細くなってきたけれど。
「……全く、飲み込みは悪くない様で何処か抜けている部分もありそうですね、貴女は」
「あはは……すみません……」
 でも、愛奈ちゃんの居ない場所なら、私にとってはどんな環境だろうが同じである。
(ま、とりあえず飛べる様にはなったし、何とかなる……かな?)
 とりま、最初の第一歩は踏み出せたってコトで。

次のページへ 戻る