使の姉は愛を貫く その3


第三章 似たもの同士

「…………」
 私が妹に恋してしまったのは、半分は愛奈ちゃんの所為だと思っている。
 親が多忙な身の上で、家族でお出かけする機会なども殆ど無く、幼少の頃より姉妹二人で過ごしてばかりだったという事情もさることながら、愛奈ちゃんには一つの困った、いや本当は困らないけど困った癖があって……。
「……ね、おねぇちゃん……今夜もいい……?」
「ええ、もちろん……おいで?」
「うん……」
 小さい頃の愛奈ちゃんは、独りでは眠れなかったというコト。
 私が中学に上がったのをきっかけに個室が与えられた後からは頻度が減ってきたものの、それまで一緒の部屋だった頃の愛奈ちゃんは二段ベッドで寝る場所は別々だったにも関わらず、こうして姉に抱き着ついていないとなかなか寝付けないコだったのだ。
「おねぇちゃん、あったかい……」
「ふふ、私じゃなきゃダメなんだよね、愛奈ちゃん?」
 一応、それを見て私が寝苦しそうだからと、母が市販の抱き枕をいくつか買ってきて試してみたりもしたものの、やっぱり人肌というか、この姉の温もりが必要みたいで。
「……うん、ごめんね?でもこうしてると安心するから……」
「謝らなくてもいいの。私達はずっと一緒なんだから、これからもおねぇちゃんが愛奈ちゃんの抱き枕にいつでもなってあげる」
 そして、迷惑じゃない?と不安げに尋ねる最愛の妹へ、本当はこちらから抱きしめたくなっている衝動を抑えつつ、出来るだけ平静を装って頭を撫でてあげる私。
「うん、おねぇちゃん大好きっ♪」
 ……それに、最初はただ大切な妹の安眠の為だったつもりの私も、毎晩愛奈ちゃんに密着されてパジャマ越しに伝わる温かくも柔らかい感触や命の鼓動、そして首筋から漂う汗とシャンプーの柔らかい香りに、次第に心ときめく様になってしまい……。
「すー、すー……」
「…………っ」
 何より、胸の中で眠るその無邪気であまりにも可愛らしい寝顔は、愛奈ちゃんこそ私の前に舞い降りた天使だと確信させるには充分だったりもして……。
(……愛奈ちゃん……やっぱり私の方はいつまでも天使なんかじゃいられないかも……)
 だ、だから起こさない様にちょっとくらい私の方から触ってみても……。
 今は何だか、無性に愛奈ちゃんのぬくもりが恋しくなってることだし……。
 ……特に、パジャマごしでも伝わるこの愛奈ちゃんの柔らかくも可愛らしいお尻の感触なんて、一体いつから味わって……。
「…………」
(……あれ、ホントにいつからだったっけ……?)
 それに、天使って……。
「…………」
「……っ、んぁ……?」
 やがて、生前の日常だった最愛の妹と同衾する夢から、ふと頭に浮かんでしまった天使というキーワードで意識が引き戻された時、私は読みかけの教本を片手に、愛奈ちゃんのいない自室のベッドへ横たわっているのに気付く。
(あー、また途中で寝落ちしちゃったかー……)
「……はー……」
 そして、薄いカーテン越しに爽やかな陽光が差し込む静まりかえった室内で、夢の残滓のごとく微かに残る愛奈ちゃんの感触を今一度頑張って思い出しつつ、溜息。
 死んだ後も記憶が残ってくれているお陰で愛奈ちゃんとちょくちょく夢で会えるのはいいんだけど、目覚めの度に改めて受ける喪失感が切ない。
(もしかしたら愛奈ちゃんも、同じような想いをしているのかな……?)
 ……というか、丁度今が高校受験の追い込み時期となるだけに、ほんと最悪のタイミングで逝ってしまい、出来ればあまり引きずっていないのを祈るしかないんだけど、私がここで心配したって何にもならないのがもどかしかった。
 ついでに、勉強好きな自分と違って、すぐにゲームに逃げたがる愛奈ちゃんは私のサポート抜きで一番大事な時期を乗り越えられるのかなというか、そもそも姉妹喧嘩の原因がそれ……。
「……ふー……」
 いや、愛奈ちゃんなら私の遺志を汲んできっとやり遂げるだろうから、余計な事は考えまい。
 それに、時々嫉妬を感じてしまっていたくらいに仲良しな古いお友達だっていたんだし。
(……にしても、今朝は妙にリアルな感触だった様な……?)
 いつもより質感が違っていたというか、今でもべったりと胸元から抱き枕にされる感触が残っていて、何やら首筋からは吐息の様なくすぐった……。
「ん……?」
 しかし、そこから意識が明確になってゆくにつれて気のせいではないのに気付き、何だか嫌な予感を覚えつつ視線を落としてみると……。
(えええええ……)
 なぜか、ここの家主が仕事上がりのスーツ姿のまま、私の胸の下からお腹の辺りにしがみ付いて寝息を立てていたりして。
「……ちょっと、ミカエル様?」
 それを見た私は大声こそ挙げはしなかったものの、すぐに上半身だけ起こして身体をゆさゆさと左右に揺らせながら、やや乱暴に引き剥がしにかかる。
(もう、久々の愛奈ちゃんの感触かと思ったら、ミカエル様の体温だったとか……)
 気づかない自分にも腹は立つものの、なんか悪い魔女にでも騙されてしまった気分である。
「ほら、起きて下さいってば……!」
「…………っ、ん、んん……っ?」
「……あれ、どうして優奈が私のベッドに……?」
 やがて、苛立ち紛れに揺らせる強度を上げつつ呼び掛けてゆくうち、ようやく瞼を開いたミカエル様がのっそりと起き上がってきょとんとした顔を見せてくるものの、それはこちらのセリフだった。
「厳密にはミカエル様のモノですが、今は私が使わせて頂いているベッドですけど?」
「んー……私が部屋を間違えたのかしら?」
「ええ、私の記憶が確かなら、これで既に三度目ですし」
 ミカエル様の寝室と私の客室は廊下を隔てて向かいなので、まぁ酔っぱらって間違うのも仕方が無いのかもしれないけれど、問題は頻度が結構高いということで。
「……えっと実はね優奈、言い忘れていた事があったんだけど」
「なんですか?」
「お酒を飲んだ後で部屋に戻るつもりが、朝に気付いたら客室のベッドだったというのは、貴女が住まう以前から時々あってね……」
「ええ、そーでしょうね。まぁ抱きつく程度ならいいですけど、勢いで襲わないで下さいよ?」
 一度肉体が滅びた身でも、未だに操は愛奈ちゃんの為に取っているつもりなんだし。
「……大丈夫。誰かさんと違って私は教え子に手を出すシュミはないから」
「それは重畳。とにかく、今から私も起きて朝食作りますから、その間に軽くシャワーでも浴びて着替えて来て下さいな」
「うーい……」
 そして、ミカエル様は私に促されてだらしなく頷くと、まだ眠いのか瞼を擦りつつ前かがみの姿勢でのそのそと部屋を出て行ってしまった。
(やれやれ……)
 美味しそうに晩酌しているのはいいとして、大体一本空ける頃には前後不覚になってくるのは分かっているのだから、その手前くらいで止めておいてくれればいいのに。
 ……まぁそれでも居候の身の上で、補習授業や持ち帰ったお仕事などやるべき事は片付けた後の話だから、私もあまり言わないんだけど。
「やっぱ、ミカエル様にはお嫁さんが必要かな……ふぁ〜あ……」
 ともあれ、悶々とした気持ちや、ミカエル様と同じく眠りが中途半端になった気だるさは残るものの、腕を伸ばしてあくびをしつつ、昨晩にお風呂から上がった後で忘れないうちにセットしたベッドサイドの目覚まし時計に目をやると、時刻はいつもの起床時間の五分前。
 ……寝落ちの割に何だかんだでほぼ決まった時間に目が覚めているのは、もうすっかりここでの新生活にも慣れてきている証だろうか?
「よっ……と……」
 ともあれ、私は右手で開いたまま持っていた教本を閉じると、おそらく寝落ちが頻発している元凶と思われるふかふかのシーツに別れを告げて立ち上がり、パジャマを脱ぎ始めてゆく。
「…………」
 その後、ふと思うところがあって下着姿のままクローゼット横の姿見の前まで移動すると、半透明の羽根を散らしつつ、寝る時には引っ込めている自分の純白の翼を広げてみた。
「……愛奈ちゃん。おねぇちゃんね、ホントに天使になっちゃったんだよ?」
 一応、まだ候補生ではあるけれど、天使みたいな姉がいるのを自慢にしていた愛奈ちゃんが知ったら一体どんな反応を見せてくるだろうか。
 今の自分にとってはその瞬間を迎えるのが何よりのモチベになっているものの、ただ私にとっては愛奈ちゃんこそが唯一無二の天使なのは言うまでもなかった。
(いや、むしろ神……?)
 ……なんて、今は言葉にしたら怒られてしまう立場としても……。
「っと、いけない、いけない……」
 ともあれ、それから切り忘れていた目覚ましのアラームが鳴って我に返った私は、出した翼を再び引っ込めて制服への着替えを急ぐ。
 この天使の翼自体は非物質のものだから、出したままでも日常生活で大きな支障は出ないものの、常に白銀色に発光しているから寝るときなどは邪魔だし、また解放時はいつでも飛び立てる様に翼がスタンバイするせいで、思わぬ形でいきなり飛び上ってしまう危険もあるため、必要に応じて出し入れするのが天使軍公式の推奨運用法になっていた。
 ……かくいう私も、最初はついつい出しっ放しになりがちだったものの、エンジェリウムへ入学早々の教室移動で、翼を広げたまま低い段差をジャンプで飛び降りようとしたら逆に舞い上がってしまい、クラスメートの前でスカートが派手に捲れ上がるという苦い失態をやらかしていたりして……。
「……あー、今思い出しても恥ずかしい……」
 なんかもう、軽く振り返るだけで顔がのぼせてしまいそうだけど……。
(ただ、痛くなければ覚えません、か……)
 そして、いつの間にやら聞きつけていたミカエル様から皮肉たっぷりに頂いたコメントがこれだけど、まぁ誰かさんも酒癖の悪さを直すには一度そうなった方がいいのかもしれない。
「って、とにかくそんなコトより……」
 制服を着たら後ろ髪を縛って顔を洗ってごはんの支度をして、それが終わったら……。

                    *

「……あの、ミカエル様起きてますー?」
「…………」
 それから、キッチンで朝食の用意をあらかた終えた頃になってもミカエル様が一向に寝室から出て来ないのに嫌な予感を覚えた私が軽くノックをして立ち入ると、薄暗くもだだっ広い室内は静まり返っているだけで返事はなく、奥のベッドの上では下着姿の女性がシーツに抱き着くような恰好で静かな寝息を立てていた。
(予感はしてたけど、やっぱり二度寝してるし……)
 一応、よれよれのスーツが入り口からベッドへ向けて散乱しているのを見るに、戻ってまず着替えようとはしたらしいものの、とにもかくにもこのままでは私もピンチである。
「……ほら、いつまでも惰眠を貪る猶予なんて無いんですから、さっさと起きてくださいな?」
 そこで、私は小さく溜息を吐きつつあられもない姿を無防備に晒す師匠を尻目に、それなりに散らかっている室内を横切って自分の部屋と同じ壁一面に張られたマジックガラスの前まで移動すると、覆っていた横長の大きなカーテンを開け閉めする紐をひと思いに引いてやった。
「ん……う……っ」
「ほらほら、可愛い弟子にいつまでも醜態を晒してないで、しゃきっとして下さい」
「……うう、まだねむい……もう少しだけぇ……」
 すると、解放されたガラスから差し込んできた眩しい陽光に当てられ、ぴくりと反応したのを頃合に私がシーツの引き剥がしにかかると、ミカエル様は軽く抵抗しつつ駄々をこねてくる。
 ……実は、ここへ住み込んで二日目の朝にいきなり発覚したけれど、この熾天使(セラフィム)様は寝起きが超のつく程に弱かったりして。
「そりゃ、ミカエル様は少しくらい遅れたって怒られる相手がいないかもしれませんけど、巻き込まれて私まで遅刻魔になるのは困りますって」
「う〜〜っ……」
「……ほら、それに私がここへ住まわせて貰っている間は、よっぽどの理由がない限りはごはんを一緒に食べる約束をしたでしょう?冷めちゃいますよ?」
「……仕方ない……おきる……ふぁぁぁ……」
 ともあれ、説得を続けるうちにミカエル様はようやくしがみついていたシーツを手放すと、だらしなく上半身を起こしつつ両手を伸ばしてきた。
「はー、やっぱりちゃんと着替えるまで同伴すべきだったかもですけど、裸で寝てるってのは大天使様というかレディとしてダメ過ぎだと思いますよ?」
「だいじょーぶ……天使は風邪なんて引いたりはしないから……」
「そーいう問題じゃなくて、いずれ恋人が出来た時にうっかり幻滅されても知りませんから」
 もしくは、まさか天然に私を誘っているつもりじゃないでしょうね?と。
「……だから、天使は恋愛禁止だと言ってるでしょ……というか、色恋沙汰と縁があるように見える?」
「あはは、やっぱ高嶺の花が過ぎますか?」
 ……ただ、モトはいいだけに、それはそれで凄く勿体無い気もするんだけど。

                    *

「……はい、どうぞ。まずはこれで頭をすっきりさせて下さいな」
「ありがと……では、いただきます……」
(……ふ〜っ、今朝もどうにかなったか……)
 ともあれ、手早く着替えを手伝いミカエル様をキッチンまで引っ張り出してようやくの朝食にまで漕ぎ着けた私は、大量にストックされているお気に入りの銘柄で淹れた目覚めのコーヒーを手渡した後で自分の分も用意しつつ、ひと仕事後の溜息を吐く。
 朝が弱いのは愛奈ちゃんも同じで、生前もよく起しに行っていたので多少手慣れてはいるものの、まさかこんなトコロで昔取った杵柄になるなんて。
「ん……おいしい……」
「あはは、どーも。まぁ相変わらず大したもの作ってませんけど」
 それから、トーストにスクランブルエッグ、サラダにスープと我が家の定番だった朝食メニューをまだ眠気が残ってそうな表情で黙々と食べ進めるミカエル様に、何だか自然と笑みが零れてしまう私。
 一応、ミカエル様の御宅に居候すると聞いた時は、付き人みたく身の回りの世話をする羽目になる覚悟はしていたけれど、その時に想像していた厳格な女貴族に仕えるメイドさんなどではなくて、年上の娘を持った母親の方だったとは……。
「ううん、自分から申し出るだけあってなかなかのものよ。……それに、ハウスキーパーの子達が貴女を住まわせると聞いて仕事が倍になるかと思えばむしろ減ったと半分褒めて半分愚痴っていたけれど、元々家事は得意だったのかしら」
「別に、得意って程でもないんですけどねー。ただ、それでも涼しい顔で何でもこなせなきゃならない立場だったので、まぁ水面下ではそれなりに」
 そんな中で、苦手でも許されたのは運動くらいだったけれど、思えば周囲から勝手にハードルを上げられがちな人生だったと思う。
(……いや、もしかしたら今も、なのかな?)
「ふふ、なるほど。……どうやら、似たもの同士な部分があるのかもね、私達って」
 すると、そんな私のぶっちゃけに対して、ミカエル様も分かるとばかりに自虐めいた笑みを浮かべてくる。
「あは、やっぱり熾天使(セラフィム)様ともなれば、完全無欠な模範を求められますか?」
 それでもって、その反動がこのプライベート、と。
「勿論、それは当然の事なんだけど、ただ私達は生まれもってのエリートだった七大天使達と違って、戦時下の綾で通常ではあり得ない出世をしてしまったクチだから……」
 すると、そう言った後でフォークを持ったままテーブルへ肘を突き、深く溜息を吐いてくるミカエル様。
「まぁ、色々あるみたいですねー……」
 私としては、そんな無防備に弱みを曝け出されても困るといえば困るんだけど、ただ神に近い存在の熾天使様にも妙に人間らしい部分があるのは嫌いじゃなかったりして。
「……それで、貴女が来てからそろそろ一月になるけれど、快適に眠れているかしら?」
「ええまぁ、おかげさまで。最初の場違い感も、ようやく慣れと共に和らいでますし」
 ともあれ、それから会話が一旦途切れた後で改めて水を向けられ、素直に頷く私。
 入学した日の施設見学のついでにエンジェリウムの学生寮を見せてもらって、いかに自分が恵まれた居住環境を与えられているかを改めて実感したのもあるけれど、ここの家主がこうして何かと世話を焼かせる残念美人だと知ってしまった今は特に、ね。
「そう。それは良かった。貴女には少しばかり無謀なペースで頑張ってもらわないといけないし、せめて疲れを取りやすい環境を与えてあげる必要があったから」
「結局、それも私がミカエル様のお家から通うことになった理由のひとつだったんですか?」
 というか、少しばかりという表現もツッコミどころではあるんだけど。
「ええ。合理的でしょ?」
「あはは、あまり合理的過ぎても何だか息が詰まってしまいそうですけど……」
 だからこそ、ミカエル様が時折(?)見せるダメっぷりが逆に癒しでもあったりする。
「それで、新しい器の心地はどう?ここまでに違和感など覚えてない?」
「んー、言われなければ“器”というのを忘れてしまいがちな程度には、ですかね?……あ、でも改めて思えば、疲れたら眠くなるしお腹もすいて、こうやって生前と何ら変わらない生活サイクルを送っているのは、少しばかり不思議な感じではあるかも……」
 それから、今度は自分の身体について問われ、ふと質問の意図とは外れた方向での違和感を思い出して、独りごとのように呟く私。
「そう?」
「だって、生前の姿は復元したけど実態は全く別の生き物だと言われましたし……」
 エルからもう人間じゃないからと釘を刺された時は、それなりにショックも覚えたワケで。
「……いやいや、確かに生き返らせてあげた訳じゃないという意味ではその通りだけれど、それでも貴女は今でもれっきとした“生命体”なのだから、維持の為に食べて眠るのは万物共通の摂理でしょう?」
 すると、そんな私に「何やら深く考えすぎてないかしら?」と苦笑いを向けてくるミカエル様。
「んじゃ、寿命や老いとは無縁な以外は、やっぱり人間と大体同じってコトですか?」
「正確には、長寿なのを除けば人間と構造が酷似している天界人と、だけどね。“主”がお許しになるかは別として、その気になればこの天界であなたの子孫だって残せるはずだし」
「……子孫、かぁ……その発想は無かったかな?」
「いずれにせよ、今はあまりいらない悩みを増やして引きずらない様に。いいわね?」
「へいへい、分かりましたよー」
 まぁ、確かに人間だった頃の感覚でこちらでも生活していられるのは重畳だし、言われた通りに今は余計な事は考えないでおこう。
(はー、コーヒーおいし……)
 ……というか、この天界の環境自体が少しびっくりした程に人間界と近いみたいだから、人間と天界人ってもしかしたら何処かで繋がっているのかもしれないけれど。
「……しかし、それにしても……」
「はい?まだ何か?」
 ともあれ、会話も途切れて朝食に専念しようとした私だったものの、対面のミカエル様の方はコーヒーカップを手に、何やらじっとこちらを見つめ続けていたりして。
「いや、こうやって一緒に生活しているうちに、何だか随分と馴れ馴れしくなったわねぇって」
「……まぁ、それはお互い様ですけどねー」
 私の方も、まさか一緒に暮らし始めて一月も経たないうちに裸でお布団に潜り込んで来られる程になるとは夢にも思っていませんでしたから。

                    *

「んじゃ、そろそろ私は登校しますけど、二度寝しちゃ駄目ですよ?」
「ふぁぁ……お腹膨れてまた眠くなったけど、たぶん大丈夫……あ、帰りにプリン買っといて……」
 それから、朝食も終えて軽く洗い物も片付けた後で行ってきますを告げる私に、ミカエル様は欠伸交じりで玄関まで見送りに来るついでに可愛らしいお使いを申し付けてくる。
「はいはい……それで、本日の夕食のリクエストは?」
「んー……今の気分的には特大のオムライス……かな……?」
「承りましたー。んじゃ、一緒に材料も買って帰りますね」
「よろしく。お金はまだある?」
「大丈夫ですし、無くなってきたら言いますので。それでは、行ってまいります」
「ええ、励んでいらっしゃい」
 そして、改めて小さくお辞儀をして行ってきますを告げ、ミカエル様の穏やかな笑みで見送られながらドアを開けて外へと出たものの……。
(プリンの買い置きにオムライス、か……)
 ある意味、トップシークレットなんだろうなぁ、この会話。
「……って、ちょっと急がないとダメかな……?」
 ともあれ、一応は普段から余裕をもって起床するようにはしているものの、それでも今朝はいつもよりミカエル様を起こすのに手間取った上に、少々話し込んでタイトな登校時間となってしまったのもあって、廊下へ出てから胸に着けた学生証のエンジェル・タグを大きく揺らせつつ、駆け足でフロアの中央ロビーから続いている屋上を目差してゆく。
「お、優奈ちゃんおはよー。今からガッコ?」
「あ、おはよーございます、ガブリエル様。ええ、ちょっと今日は時間がヤバいのでまたー」
 すると、ロビーに近づいたところで、何故か自分と同じ制服を着ている若作りで可愛らしい熾天使様と鉢合わせたものの、足は止めないまま軽く会釈を返す程度で済ませる私。
「んふふー、チコクはお仕置きだよ〜?でも、安全第一でねー?」
「どうもですー♪」
 ……一応、ツッコミどころは山ほどあるんだけど、まぁ今はそんな時間も惜しいし。

「あ、ゆうなさまおはようございますー。今朝はいつもより10分ほど遅めの出発ですねー」
「けさは快晴で風もゆるやかですけど午後からは曇ってきて、かえりの時間は雨のぱらつくところもあるので気をつけるですよー?」
 やがて、汗を少々滲ませつつロビーの螺旋階段を駆け上がって屋上の発着場へ到達するや、初めてここへ来た時に出迎えてくれた小さなケルビムさん達が天気予報付きで声をかけてきた。
「ええまぁ、今朝は少しばかり立て込みまして……それよりいつもお疲れ様ですー」
 ちなみにこの二人は想像通りに姉妹の天使さんで、それぞれポメリとペリエという名前があるのは聞いたものの、天使となっている間は個人名を一旦捨てさせられて、ケルビムのナンバー8や9とという風に、階級と序列の呼び名になってしまうんだそう。
 ……つまり、現在は私も便宜上、生前の名前を引き継いで呼んで貰っているけれど、いずれ正式な天使となった暁には天衣優奈という名ともおさらばになりそうなのは寂しい話、というのは置いておいて……。
(雨かぁ……んじゃレインコート持ってた方がいいかもだけど、取りに戻る時間は無いし、学校の売店に残ってるのを祈るしかないか)
 何せ、地上では気に留める必要のない変化も中空から上空では全然状況が違ってくるし、天候には細心の注意を払う必要があった。
 ……ただ、そんなリスクを踏まえても、やっぱり自分の翼で自由に飛べるというのは何ものにも代えがたい魅力ではあるんだけど。
「まぁ、降りだしたらむりしないで地上から帰宅するといいですよー」
「ミカエルさまいわく天使はかぜひかないそうですけど、ただのこじんてきな体質ですからー」
「ですよねー……」
 とにもかくにも、他に誰もいない発着場の中央へ駆け足で移動した私は、まず自らの目と感覚で空模様と風の流れを確認した後に顕現させた天使の翼をゆっくりと広げると、軽くジャンプして浮き上がると同時に全身を包んでくる半重力感に対して、冷静にホバリングで適度な高度と向きを調整してゆく。
(ふー……)
 天使は心で飛ぶという言葉の通り、安定した飛行のコツは遅刻気味でも決して焦らないこと。
「おーらい、おーらい……」
「……はい、いってらっしゃいませ〜♪」
「では、いってまいります……っ!」
 それから、横で見守ってくれるケルビム先輩達からのグリーンシグナルを合図に目的地の方へ意思を込めた強い視線を向けると、背中の翼がそれを汲み取って中空へ向けて勢いよく前進していった。
「……ん〜、やっぱ天気のいい朝の空は気持ちいいな……」
 一応、天使候補生の最初のハードルとなるのが、こういった高所から躊躇無く踏み出せるかどうかとは聞いたけれど、私の場合はいきなり天界で一番高い場所から突き落とされてそんな葛藤を感じるヒマすら無かったので、既に快適で楽しいだけの移動手段である。
(ほんと、いつか愛奈ちゃんと一緒にお空の散歩が出来たらどんなに素敵だろう……)
 なんて妄想すればまた未練が膨らんでしまいそうだけど、果たして叶う願望なのだろうか?
「…………」
 とまぁ、何にしてもまずは現在(いま)を全力で頑張らないと、その可能性すら掴めないんだけど。
「……エンジェリウム、かぁ……」
 やがて、視界の先に一月前から通い始めている学び舎が見えてきた頃合いで、つい溜息混じりに呟いてしまう私。
 新世代型の天使育成学校であるエンジェリウムは、ミカエル様達が熾天使となった後に設立された養成機関で、天使志願者はまずここへ入学し、必要な知識の学習や基礎となる飛行能力の訓練に武器を用いた空中戦の研鑽、翼に込められた神霊力の活用など、一通りのカリキュラムを修了して卒業した後に改めて任命される道筋となっているものの、出願資格は不問とされている代わりに学内競争と適正試験で常に篩いにかけられ、毎年数多くの候補生が門徒を叩くも実際に卒業まで漕ぎ着けられるのはごく僅かという、それは厳しい厳しい登竜門なのだそうで。
「……うーん……」
 ……とまぁ、その道のりは険しくとも、私も神の前で志願した以上、越えなければならない試練ならば全力で挑む所存ではあるんだけど……。

                    *

「みなさん、おはようございます〜♪」
「…………」
「…………」
(って、また今日もスルーですかそうですか……)
 やがて、何とか遅刻を免れるギリギリで敷地内の屋上発着場へ辿り着き、手早く上履きに履き替えた後で自分のクラスルームへ駆け込んだものの、出迎えてきたのは生前に通っていた時の様な和気藹々とした挨拶返しではなくて、来なければ良かったのにと言わんばかりのギスギスとした空気で、私が入学した時から変わらないとしてもいきなり気が滅入りそうになる。
(これじゃ、クラスメートというより四面楚歌よねぇ……)
 一応、他の生徒への明らかな妨害行為は退学処分どころか再入学資格まで失うくらいに厳しく禁じられているので、陰湿なイジメとか嫌がらせを受けたりは無いとしても、こういう空気はどうにも苦手。
 ……一応、これまでも高校入試を控えた中学三年の冬場に教室の空気が普段より張りつめて息苦しかった時期はあったものの、それでもお互い頑張ろうと励まし合うくらいの仲間意識があったのに対して、この場にあるのは容赦の無い敵意ばかりというか。
「や、おっはよー優奈ちゃん?」
「ふぅ……私にはリンネちゃんだけだわ、ホント……」
 ただ、それでも仲良くしてくれる相手が全くいないワケでもないだけマシというか、やがて自分の席近くでまるで戦場に咲いた一輪の花みたく人懐っこい笑みを浮かべて手を上げてくる可憐な学友を見るや、その手を握り締めて溜息を吐く私。
「あはは、気持ちは嬉しいけど天使は恋愛禁止だよー?」
「私だってホントに付き合っちゃおうか?と言われても困るけど……でも、それもなんだかなぁってルールよねー……」
 ぶっちゃけ、ミカエル様の口ぶりから建前と実態の兼ね合いで形骸化しているんじゃないかと少々甘く見ていたら、入学時にサインさせられた合意書の内容にしっかりと明記されていて、学校案内の際にも改めて釘を刺されてしまう程度には徹底されていたりして。
「そ?神の代行者である天使が“主”より大切な存在を作ったら支障が出るからってのは、理由としては分かり易いほうだと思うけどなぁ」
「まぁ確かにそうかもしれないけど、でも結局それがこんな空気になっている原因じゃないのかしらん?」
 せっかくの学生生活なんだから、勉強以外にもアオハルだってあるものでしょうに。
「ん〜。そうはいっても、じゃあ実際にみんな自分のコトだけなのかって言われると、案外そうでもないと思うよ?ほら、うちの課題ってグループでやるのも多いから、何だかんだで気心の知れた仲間を集めてる人は多いみたいだし」
「いや、それもなんていうか……うーん……」
 一応、それで芽生える友情があるのも否定しないとして、ただそれは仲間意識というより相互に利用価値を認め合ってるだけというか。
「?」
「いやね、私……天使ってもっとこう、純粋な慈愛に満ち溢れてるものかと思ってたんだけど」
 そこで、結局何が言いたいのかと言わんばかりのきょとんとした目を向けてくるリンネちゃんへ、苦笑い交じりで告白する私。
 まぁ人間時代からの勝手な思い込みといえばそれまでだろうけど、そこは正直誤算だったと言わざるをえないというか。
「もう、よく分からないトコロで悩み過ぎだよー。もっと気楽にいこう?」
「うんまぁ、似たようなセリフは今朝がたミカエル様からも言われたばかりなんだけどね」
 結局は、あまり深く考えないまま誘いに乗ってしまった弊害なのかもしれないけれど。
「もしかして、今日は来るのがちょっと遅かったのはそのため?」
「……いや、まぁそれも無くはないかもしれないけど、ちょっと違うかな……」
 朝食時に少々話し込んだのは事実としても、やっぱり一番の原因はミカエル様の寝起きの悪さの所為だし、むしろ時間通りに起きてくれさえすればその程度のゆとりは作れるんですけどね。
 ただ、その申し立ても「善処します」の一点張りで何も進歩がないのでおそらくムリだろう。
「……そういえば、あなたってミカエル様の住み込み弟子でしたっけ?」
「あー、えっと弟子……になるのかな?」
 ともあれ、それから不意に他の女子生徒が会話に割り込んできたのを受けて、腕組みのままそちらへ振り返りつつ曖昧な言葉を返す私。
 実は、天使候補生が階級の高い天使に弟子入りして身の回りのお世話やら助手を務めていること自体は珍しくもないそうで、状況的には私もその一人になるのかもしれないけれど。
「ほんと羨ましいです……!熾天使(セラフィム)様って天使軍のトップとして公平さを保つ為にお弟子さんは極力取らない事で有名でしたので、希望者は多くともみんな諦めざるを得ませんしたから」
 そして、そんな私へ長身ですらっとした凛々しい雰囲気のクラスメート……確かジョゼッタさんは拳を握り締めながら端正な顔の眉間にしわを寄せて力説してくる。
「……いや、でもそんなに羨ましがられるものでもないと思うんだけどね……結構大変だし」
「確かに、ミカエル様は完璧主義で自分にも他人にも厳格な方として有名ですからね!やっぱり気が休まるヒマなんてありませんか?」
「え、えっと……まぁ、確かにあまり気は休まらない……かな?」
 といっても、帰宅してきてご飯の前にお風呂に入っておいて下さいと言っても先に一杯飲みたいとだだをこねられて大変だとか、脱ぎ散らかした服をハンガーにかけてくれないとか、主にそっち方面でだけど。
 ……で、時おり遅くなって疲れ果てた顔で帰宅した際に仏心を見せて先にご飯にすると、今朝みたいな体たらくになるし。
「あはは、なにせ学園長先生と生徒の同居だしねー?」
「そうそう……ついでに、セラフィム・タワーからここまでそれなりに遠いし」
 確かに、私も最初はあまり嬉しい話では無かったものの、ただそれでもエンジェリウム全体がこんな雰囲気だと、むしろ寮に入れなくて正解だったかもしれない。
 ……間違いなく、私にとってはこちらの空気の方が遥かに気が休まらないだろうし。
「えっと……それで、弟子入りして何か特別に教わっているコトなどは何か?」
「いや、私の場合は中途入学だし、遅れている分の補習授業をしてもらっているだけだから……」
 ともあれ、続けてジョゼッタさんから一番聞きたかったと思われる質問を向けられ、一体何が特別なのかそうでないのかすら知らない私は正直に答えるものの……。
「そうですか……」
 しかし、それでも納得していない様子で何やら考え込む仕草を見せるジョゼッタさん。
(えっと……)
 ……いやホント、ミカエル様と一緒に暮らし始めた中で何か特別に得られたかと問われれば、家事スキルが向上したってくらいなんですが、多分。
「なるほど分かりました。……では、また」
 そして、ジョゼッタさんは暫くそのまま考え込んだ末に、何やら一方的に納得した?様子で自分の席へと戻っていってしまった。
「あれは、あまり人の話を聞かないタイプだねー、あはは」
「……笑いごと、なのかなぁ?」
 なにやら、猛烈にイヤな予感がしてくるんですけど……。

                    *

「……さぁ、本日はこのわたしと勝負です、天衣優奈さん!」
「えええええ……」
 やがて、何やら斜め後ろの方から普段よりも熱い視線を感じつつ、午後の戦闘訓練の時間を迎えるや、悪い予感が的中する形でジョゼッタさんからウェーブがかった髪を大げさに揺らせつつ、指差しで勝負を挑まれてしまう私。
「朝方の問いかけの回答、敢えて隠しているのかそれとも自覚をしていないのか判断不能でしたので、戦いの中であなたがミカエル様より何を学んでいるのか、この身で教えてもらうコトにしました!」
「しましたって……」
 まぁ自覚していない可能性も否定はしきれないとしても、でもホントに遅れている分を突貫で消化させているだけなんだけどなぁ……。
「うわお、真昼の決闘だねー?」
「……いや、私には決闘する理由がありませんが……」
 大体、天使は私闘も禁止でしょーに。
「よもや、あの熾天使ミカエル様の弟子ともあろう方が逃げませんよね?!」
「んー、やっぱり話を聞いてくれないタイプのひとかぁ……ええと……」
 とはいえ、結局は一風変わったトレーニングパートナーのお誘いだから、断る理由も無いといえばないんだけど……。
「ん、あたしは別にいーよ?今日は他のひとを探すから」
 そこで、いつも組んでいるリンネちゃんへちらりと視線を送る私だったものの、こちらの意図は伝わらずにあっさりと気を利かされてしまった。
「あ、そ、そう……?ごめんね……」
 まぁ、面白がっているみたいだしそんな予感はしていたから、仕方が無いか。
「では、この時間の戦闘訓練のお相手はわたしというコトで異存はありませんね?」
「あはは……まぁ、お手柔らかに……」
 ともあれ、騒ぎを大きくして周囲の目を引くのもイヤだったので渋々ながらも了承した私は、白い歯をキラーンと光らせつつ親指を立てるジョゼッタさんへ頷きかけた後に、空いている二人用仮想戦場のプレーヤーズシートを探して横並びに腰掛け、静かに目を閉じた。
(はー……)
 ちなみに、戦闘訓練といっても生身で戦うのではなく、この施設にある最先端の演算装置で構築された仮想空間へ幽体離脱させた生徒の魂を転送し、その先で擬人化させたアストラル体で戦わせるという、ちょっと手の込んだシミュレータを使っての演習で、今は天使同士の腕比べはこれを使うのが常識となっている、らしい。
 ……要は、私が事故で死んでしまう少し前くらいからテレビで騒がれ始めていたバーチャルなんとか的な訓練方法だけど、どうしてこんなまどろっこしくも大掛かりな設備を用意しているのかといえば、訓練中の事故の防止と同時に、相手を傷付けない配慮とか気にせずに常に全力の真剣勝負で戦わせたいからなんだそうで。
(思いっきり、ね……)
「…………」

「……さぁ、やっと二人きりになれましたね!約束どおりに見せてもらいますよ?」
 ともあれ、やがてシートに身体を預けた二人の魂が仮想空間の中へと呼び寄せられて各々の姿に形成(モデリング)され、天使の基本装備である天使剣と銃を支給されて今回の戦場であるエンジェリウム上空へ立つと、私と対峙するジョゼッタさんが抜いた剣の先をこちらへ向けて宣言してきた。
「いやだから、見せろといわれても該当するものが……」
「問答無用……ッッ!!いきます!」
「…………っっ」
 それから一方的に戦闘開始を告げるや、目にも留まらぬとまではギリギリいかない速度で相手が天使剣を振りかぶって高速接近して来たのを受けて、慌てて身を翻す私。
(疾い……!)
「ほら、いい反応じゃないですか!翼を得てまだ一月くらいの新米(アマチュア)とは思えませんよ?」
「……そういうあなたも、只者じゃないんでしょう?」
 その新米の目にも、無駄の感じられない構えから身体の一部の様に自然と伸びてくる彼女の太刀筋は、少なくとも素人のそれじゃないのは分かる。
「ええ、幼い頃より鍛錬を積んできた剣術には少々の心得があるのと……実は、昨季に中級第三位(パワー)のオファーは受けているんですよね、わたし」
「それじゃ……」
「あなたの秘めたる素質はともかく、現時点ではこちらの方が遥かに格上ってコトになりますかね……!」
 そしてそう告げるが早いか、再び流れる様な動きで距離を詰めて来るジョゼッタさん。
「く……っ?!」
 私はそれを見て、さっきと同じ要領で回避しようとしたものの……。
「……遅い……ッッ!」
「うあ……ッッ?!」
 今度はこちらの想定を上回った一瞬で踏み込まれ、焦りを感じる間もなく相手の斬撃が私の腹部を切り裂いた。
「…………」
「…………」
「……っ、あ、あれ、私……?」
 その後、一旦視界が暗転して再び気付いた時には、さっき斬られた場所へ立っていて……。
「復活したんですよ。わたしがあなたの翼を奪わなかったので」
 更に少し距離を置いた前方では、ジョゼッタさんが不満そうに腕組みを見せていた。
「翼を……そっか……」
 実はこの模擬戦は仮想空間ならではの特殊ルールを実装していて、単に相手を倒すだけでは終わらず、戦闘不能に陥った相手の背中から天使の翼を奪って初めて勝利となるもの。
 そして、ボディが致命傷を受けた場合は先ほどの様に一旦意識を失ってしまうので、本当はその間にジョゼッタさんが私の背中の翼を奪えば勝負が確定していたものの、どうやらまだ終わらせる気など無いみたいだった。
「ちょっと、真面目にやって下さいよ?そんなんじゃ全然わからないじゃないですか!」
「真面目にって……」
「ほら、まだ時間はありますし、ウォームアップが必要なら少しくらい付き合ってあげますから」
「だから、話を聞いて……わ……っ?!」
 こちらとしては手を抜いているつもりなんて無いし、そもそも去年に中級天使のオファーを受けたのが本当なら、積んできた経験が違い過ぎ……。
(いや、それだけじゃなくて……)
 考えてみれば、今までの戦闘訓練の時はリンネちゃんが慣れていない自分に合わせて“お稽古”してくれていたわけで、本気で自分を倒そうとしてくる相手との手合わせはこれが初めてかもしれなかった。
「ほら、逃げてばかりじゃつまんないですよ、もっと反撃もして下さいな?」
「…………っ」
 ともあれ、当面は距離を置いて懐へ飛び込ませない様にするくらいしか出来ない上に、反撃方法が思い浮かばない。
 同じく剣で勝負を挑むのは自殺行為だろうし、銃だって……。
「く………ッッ」

 ドンドンドンッッ

「……なんですかそれ、反撃のつもりですか?」
 一応ものは試しのつもりで、私は最初から握っていた天使剣から腰のホルスターにある二丁の天使銃へ持ち替えて逃げ回りつつ一気に撃ち放ったものの、ジョゼッタさんはこちらが構えるのを見るや左右へ素早く連続スライドさせながら余裕で避けてくる。
(やっぱ、ダメかぁ……)
 生前に愛奈ちゃんと遊んでいたシューターゲームみたいに無反動で狙った場所へ着弾させられるのはいいんだけど、それは戦えるって意味とイコールにはならない。
 一応、弾丸も神霊力で精製される非物質のものでリロードも勝手に補填してくれる便利なブキではあるんだけど、逆に言えば……。
「……く……っ」
「銃ってのは、こうやって使うんです……っ!」
 と、攻めあぐねて焦るこちらに対して、今度はジョゼッタさんも天使銃へ持ち替えると、私の現在地ではなく少しずらせた地点を狙って射撃してきた。
「しま……っ?!」
 丁度これから向かう一歩先を狙われて私は思わず急減速させるものの、それが相手の狙いと気付いて背筋に寒気が走った時は既に手遅れ。
「…………ッッ」
 痛みこそ無いものの、鋭利な刃で背中から胸を貫かれた心臓に悪い衝撃と共に、私の視界が再び暗転していった。

(う〜〜……っっ)
「……まさかとは思いましたが、ミカエル様の弟子のくせにホントに弱いんですかあなた?」
 やがて再び復帰したところで、先程と同じく少し距離を置いたポジションに戻っていたジョゼッタさんから、今度は露骨に呆れた風なセリフを向けられてしまう。
(だから、まだ一月の新米だって言ってるじゃな……!)
 そこで、あまりに自分勝手な会話を進めてゆく相手に一度は逆切れしそうになったものの、すぐに口にしかけた言葉を飲み込む私。
『……どうやら、似たもの同士な部分があるのかもね、私達って』

 ……そう。私は弱音なんて吐くコトは許されていない。
 たとえ虚勢だろうが水面下でもがこうが、愛奈ちゃんの為に天使でいるコトを決めたあの日から、肉体は失ってもまだ魂は生き続けているのだから。
「やれやれ……とんだ誤算でしたが、まぁいいです。まだまだ時間も残っていますし、もう少しだけ付き合ってあげますよ?」
 けど、ここからどうすれば……。
「ほら、次はあなたの方から攻めて来てくださいな」
「…………っ」
 しかし、私は相手の挑発には乗らず、空中バックステップで更に距離を拡げつつ全力で逃げ出した。
 何とか戦おうにも、剣と銃のどちらも目の前の相手には遠く及ばないのは事実である。
「……まぁ、無闇にかかってこないのは賢明ですけど、ずっと追いかけっこでもつまらないでしょう?」
 ……でも、エルは私を特別な天使になり得ると言って誘ってきた。
(あれは、どういう根拠だったんだろう……?)
 何か、私には他の人には無い強さの根源みたいなのが?
(経験の差を埋める天使の強さ……ん?あれ、そういえば……?)
 そこで、私はいつだったか熾天使様の家に置いてある小型のシミュレータで演習を受けさせてもらった時のコトを思い出す。

「……天使のチカラってよ、ぶっちゃけ本体の身体能力なんざ関係ねぇってハナシは知ってっか?優奈」
 あれは、せっかくだからミカエル様と二人がかりで私を鍛えようって流れになったものの、さすがにレベルがあまりに違いすぎて、どんなに手加減しても直接に相手してやるのは難しいからと結局はシャドー稽古になってしまい、目差す壁の高さに途方にくれかけた中でかけてもらったウリエル様からのフォローだったか。
「へ……?」
「それは言い過ぎでしょ、ウリエル。でも確かにそれが決定的な差になることは無いかしら?」
 思わず全部が台無しになりそうな言い草にきょとんとさせられてしまった私へ、ミカエル様も訂正は加えるものの概ね同意した言葉を続けてくる。
「んじゃ、一体何が決定的な違いになってくると?」
「ズバリ、“魂の輝き”ってヤツさ」
「魂……?」
「魂の輝きの強さが翼に込められた神霊力を引き出し、それが貴女に与えられた特別製の器に伝わって発揮される。加えて天使の中には“神術”と呼ばれる超常現象的なチカラを扱える者もいるけど、そういうのはすべからく魂の輝きの強い者達ね」
「ま、元人間のお前さんに分かりやすく言えば、“魔法”ってヤツになるか?ほれ」
 そして、ウリエル様は私にも分かりやすいようにと補足を入れると、目の前で翳した右手の先に発生させた大きな炎を躍らせてくる。
「神術……」
「おそらく、じきに優奈にも使える様になるはずよ。……何せ貴女は“主”より魂の輝きを評価されてエデンの塔の前へ召されたのだから」
「そう言われても……んじゃ、魂の輝きってどうやって引き出したり鍛えたりするんです?」
「基本的に鍛えられるものじゃないけど……そうね、とにかくやる気を出す?」
「……投げないでくださいよ」

「…………」
 あの時は冷めたツッコミを入れてしまったけれど、考えてみたら……。
「……ほら、隙ありです……!」
「ぐ……っ?!」
 しかし、回想しているうちに動きが鈍っていたのか、それからジョゼッタさんの鋭い声の直後にまたも斬り払われてしまう私。
「……まったく、あなたには失望しました。ここまで付き合ったのも時間のムダでしたか」
 それから、三度目の復活後も同じ位置へ戻っていたジョゼッタさんは、嘲る様なセリフとは裏腹に憎しみが込められた視線を私に向けてくる。
「わたしを諦めさせるどころか、更に未練を強くしてしまうなんて……」
(未練……)
「しかし、もうそれも終わり。……次に仕留めた時は今度こそトドメを刺させてもらいます」
 そして、ジョゼッタさんはそう宣言すると、鋭い殺気を込めつつ天使剣を両手で構えてきた。
(ホント、最初から最後まで一方的なんだから……)
 とは言い返したいものの、でも私の方も何かを掴みかけている様な……。
「それで、提案なんですけど、あなたがこのまま負ければミカエル様の弟子の座を明け渡して貰うというのはどうでしょう?あなたでは凛々しくも剛強なるあの御方には到底相応しくないのが分かりましたし」
「……いや、そんな勝手なマネが出来るとでも?」
 どんな経緯で私があの人に預けられたのかは知らないとしても、“主”の勅命らしいし。
「では、自分で直談判しますので、せめてわたしをミカエル様のお宅へ連れて行っていただくというのは?」
「そっ、それは困る……かな……?」
 この人、ミカエル様に並々ならぬ憧れを抱いているみたいだし、あの散らかった部屋や何かの間違いでプライベートなポンコツ状態を見られたら……。
「……やっぱり、執着してるじゃないですか……!」
 しかし、そんな私の懸念や配慮なんて知る由もなく、申し出を断られて腹を立てたジョゼッタさんは感情に任せて斬りかかってきた。
「いや、だからね……っ?!」
 ……というか、むしろ執着しまくっているのはジョゼッタさんの方で、それがこの戦いでの彼女の力の源になっていると仮定した場合、つまり私がそれを上回るには……。
(未練に、執着……)
 もちろん、それは私にもあって……。
「問答無用……ッッ」
「く……っっ」
 けど、もうのんびり考えているヒマなんてない。
 ……既に、私の足は土俵際なのだから。
「もう、すっぱり諦めたらどうです?あなたからはミカエル様のような覇気も感じられませんし、それで一体誰が護れると言うんですか……ッ?!」
「…………ッ?!」
 私、は……。
「覚悟……!」
「……はぁぁぁぁぁぁ……ッッ!」
 そして、苛立ち紛れに続けられたジョゼッタさんの鋭利な言葉が琴線に深く突き刺さり、貫かれる様な衝撃と共に全身が熱くなった私は、身体が勝手に前進して相手のトドメの一撃と自分の剣を交叉させていた。
「……ッ、受け止めましたか……?!」
「わ、私だって、護りたいものはあるんだから……!」
 ……そう、だから私はもっともっとチカラを付けなゃならないし、それに……。
「く……っ、今さら反転攻勢ですか……?」
 確かにジョゼッタさんは強いけど……でも、こんな所で苦戦しているワケにはいかない。
 熾天使が示した到達点は、あまりに高く聳える壁の先なのだから。
「はぁぁぁぁぁぁ……ッッ」
「……っ、斬撃が……鋭く……?!」
 それから、そんな想いを胸に衝動の赴くがまま、私は相手へ向けて一方的に剣を打ち付ける。
 勿論、このままじゃまだ勝てやしないのも自覚しているけれど。

「……えっと、それで参考までにその神術の使い方ってどうやるんですか?」
「基本は強い意志と明確なイメージかしら?さっきウリエルが操った炎も、あなたの前で格好付けて見せようとした意志の具現だから」
「こらまて、人聞きの悪いコト言ってんじゃねーよ!授かった神霊力をんなアホなコトに……」

(……つまり、私が見出すべき突破口は……)
 そこから、更に教わった神術の使い方を思い出した私は、悟られないように無心で攻撃を続けて敵を足留めしつつ、やがて明確なイメージを固めると……。
(神霊力よ、我が剣に宿って……!)
「はぁぁぁぁぁ……ッッ!!」

 バキィッッ

「うぁ……ッ?!」
 やがて連撃の流れの合間に私が刀身にチカラを込めた強烈な一撃を叩き付けると、ジョゼッタさんが知らずで受け止めた途端に激しい衝撃が発生してそのまま後方へ弾き飛ばされてしまう。
(今だ……!)
「翼よ、敵を貫く数多の刃となれ……!」
 そして、続けざま私は生前に愛奈ちゃんとよく一緒に遊んでいた撃ち合いゲームで愛用していたミサイルの雨をイメージすると、翳した手を合図に羽根の先から大量の白銀の弾がジョゼッタさんを狙って派手に降り注いだ。
「…………っ?!」
「すご、ホントに出た……」
(なるほど、随分と“ノリ”がいいんだ、この翼……)
 ともあれ、不意打ちで襲い掛かった羽根の弾雨はそれだけで相手を戦闘不能に追い込む威力を秘めていて……。

「……それで、どうしていきなり強くなったり神術で反撃してきたりしたんですか……?」
 やがて、相手の流儀に合わせて私も少し距離を置きつつ待っていると、起き上がってきたジョゼッタさんが解せないといった様子で理由を訊ねてきた。
「ええとまぁ、ミカエル様たちに教えてもらったことを思い出したから……になるのかな?」
「やっぱり弟子として特別扱いされてるじゃないですか……ずるいです」
「あはは、やっぱりずるいですか?」
「ずるいです!まったく……」
「けど、これでようやくポイント的には3対1だし、もう少しやろっか?」
 せっかくだから、今のうちに使えるようになった神術も色々試してみたいコトだし。
「……余裕まで出してきましたか。しかしこちらもまだまだこれからです……!」
「……いざ、勝負……ッッ」
 いや、流石に余裕なんかはないけどね……。

                    *

「あはは、ふたりともおつかれー。それで真昼の決闘はどーだった?」
「……まったく、聖女みたいな顔してとんだ喰わせ者でしたよ。最初は無能なフリをして油断させたところで一気に捲くってくるとは……」
 やがて、何だかんだで結構戦えるようになった実感を覚えた頃にタイムアップを迎え、魂が再び器へ戻ったところで先に傍らまで来て待ってくれていたリンネちゃんが結果を尋ねてくると、ジョゼッタさんは肩を竦めながら人聞きの悪い言葉を返す。
「ありゃ、意外と腹黒いトコロあるんだ、優奈ちゃん?」
「いやいや、黒くない、黒くないってば……!」
 こっちも必死だったのに、そんな風に思われるのは心外と言わざるを得ないんですが。
 ……というか、天使に「黒い」は禁句です。
「いずれにせよ、勝負は引き分けですね?ではまた」
 ともあれ、腹黒イメージだけは勘弁と弁明する私へ、ジョゼッタさんは捨て台詞の様にそう告げるや、すたすたとひとり立ち去っていってしまった。
「ふーん、引き分けなんだ?でも、あの調子だとまた挑んで来そうだねー?」
「あー、確かにこれで終わりって空気でもなさそうだけど……やれやれ」
 結果的には、お陰様でかなり有意義な訓練をさせてもらったとしても、その代わりに厄介な知人が増えてしまった、という感じだろうか。
「まぁ、いいんじゃない?お友達が一人増えたと思えば」
「お友達、かなぁ……」
 あれですか、強敵と書いて「とも」と呼ぶ、っていうパターンの。
 ……まぁ確かに、面倒くさそうだけどあの正々堂々な騎士道精神みたいなのは嫌いじゃない、かも?

第四章 傷跡

「……おい、優奈?コラ、起きろ……っ!」
「……んあっ?あ、す、すみません……っっ!」
 やがて、夕食が終わって補習の時間を迎え、強烈な眠気に抗おうとしていた中で不意に野太い声で呼びかけられて慌てて顔を上げると、眼前では私を囲む熾天使様たちが一斉にこちらを覗き込んでいた。
「珍しいですね、真面目な優奈さんが途中で居眠りなど。お疲れですか?」
「すみません、実は午後の戦闘訓練がいつもより激しかったもので……」
 それから、沈着で端正な顔に仏様みたいな柔和な笑みを浮かべて問いかけてくるラファエル様に、顔を紅潮させつつ頭を掻く私。
 ほんと、今夜は珍しく熾天使様たちが全員揃って講義しに来てくれているというのに、どうやら眠気を我慢する夢を見ていたらしい。
「あー、仮想戦闘システムは安全だが、精神面での消耗は激しいからな。まぁ無理すんなよ?」
「けど、熾天使(セラフィム)を前に居眠りとはなかなかの大物というか、誰かさんに似てきたのかしらん?」
「ちょっと、誰かさんって誰よー?」
「……大切な弟子の補習中にワインなんざ飲んでやがるお前だ、オマエ」
「いや、みんな集まってくれる日は楽だわー。見てるだけでいいし……」
「ち……いいか、優奈。お前は決してこういう天使になっちゃダメだぞ?」
「うんうん、何だったらうちへ引っ越してくるー?あたしなら昼夜問わず懇切丁寧に優奈ちゃんを仕込……指導してあげられるけど……ぐふふ」
「ガブリエル、てめぇは別のイミで優奈が心配だってんだ、このヘンタイ天使が」
 そして、隙あらばとイヤらしい手つきで両指を蠢かしつつ危険なお誘いをかけてくる、外見こそは可愛らしい少女なガブリエル様に、おそらく同じ立場の者にしか出来ないツッコミを続けるウリエル様。
「月と純潔を司る大天使サマにワケの分からないこと言わないで欲しいんだけどなぁ?……ね、優奈ちゃんもこんな粗野な野獣みたいなのより、白百合のお姉さまよねー?」
「いや、えっと……」
 まぁ、正直ご同類さんな匂いを感じていないわけでもないんだけど、あいにく私は今でも愛奈ちゃん一筋でして。
「野獣だろーが、オマエよりは紳士だよ。こいつこそ女同士ならノーカンを地で行きやがるケダモノだから迂闊に近づくんじゃねーぞ、優奈?」
「……もう、ウリエルったら私を差し置いて優奈の保護者気取り?喧嘩っ早い脳筋の癖に」
「てめーらがそうさせてんだろうがぁっっ!っていうか、いつまでも飲んでんじゃねーよ!」
「あはは、まぁまぁ皆さん仲良くですねー……」
 いやまぁ、何だかんだでよってたかって可愛がって下さっているのは嬉しいんですけど。
「ふふふ、天使軍の総大将として名を馳せる熾天使達だというのに、実際のところはロクなのがいないでしょう?幻滅しましたか優奈さん?」
「え、いやいや幻滅だなんてそんなって、ラファエル、様……?」
 一応、熾天使様の中だとラファエル様が一番“らしい”んだけど、でも時々穏やかな笑みを浮かべてさらっと毒を吐くのが心臓に悪かった。
「……ま、それはそれとして、そろそろ共同理事長として優奈ちゃんに面談しておこうとも思ってたんだけど、エンジェリウムは楽しんでるー?」
「一応、仲良くしてくれる友達もいますし、まったく楽しくないわけでもないですけど……ただみんな常に殺気立ってる感じで、息が詰まりそうになりがちなのがつらい感じですかねー」
 ともあれ、それから不毛な言い合いも落ち着いた頃に、ガブリエル様からこれまでの学園生活の感想を尋ねられ、常にピリピリと張り詰める教室内の雰囲気を思い出しつつ率直に答える私。
 ちなみに、並んだら私の方が年上に見えるくらいに若ぶりなこのガブリエル様が実は一番の年長者というのは当人は触れられたがらない事実だけど、天使としてのキャリアも一番長いらしくミカエル様を影で支えているまとめ役なんだそうで。
「あ〜……まぁもう少しくらいは心にゆとりを持って皆には高みを目差してもらいたいのがあたしとしても本音なんだけど、ただそういう空気になってしまうのは致し方がない面もあるからねー……」
「確かに、俺らの時代は天使ったら一律で下級第三位(エンジェル)からだったんだが、エンジェリウムが出来て以降は残した成績次第で立ち位置に格差が出るからな」
「初期は試験的に中級第二位(ヴァーチャー)までとしていた上限もすぐに撤廃されましたし、それこそ一生追いつけなくなる程の差が付いてしまいかねませんからね。無論、意欲の向上にも繋がり全体の底上げに一躍買っているのは否めませんが」
 すると、理事長先生が肩を竦めつつ苦笑いを返した後で、ウリエル様とラファエル様も似た様な表情で続けて補足を入れてくる。
「……でも、どうしてそんな露骨に競争を煽るやり方に?」
「なんでかって、資質の高いヤツらを早急に集める為以外にあるかよ。特に昔の内乱から深刻な中級天使不足に陥ってるのが解消されてねぇからな」
「ええ、そしてあまりに優秀すぎた第二の“彼女”になりうる素材を、今度は手遅れにならないうちに見つけ、間違った方向へ歩むことのない様に囲い込む為でもありますかね」
「…………」
 そして、その“彼女”という言葉が出たところで、何故だか今日はあまり話さず机に伏せたまま飲んだくれているミカエル様が、中身の入ったワイングラス片手にぴくりと反応を見せた。
(ミカエル様……?)
「まぁ、その辺の事情をちゃんと教えるなら、件の内乱に触れなきゃならないんだろーけど、久々にあの時のコトを語っちゃうー?ミカエル」
「確かに、丁度いい機会ですかね。……何せ、今宵は彼の起こした叛乱が終結した日ですから」
「叛乱……?ってもしかして……」
「んー、それも任せる……」
 その後、ガブリエル様たちから愛弟子への教授を促されるも、ミカエル様は気のない返事を素っ気無く呟いて席を立つと、ふらふらとした足取りでリビングから星空のテラスの方へと歩いて行ってしまった。
「おい、ミカエルてめぇいい加減に……!いや……」
 そこで、ミカエル様のそんな態度に、ウリエル様がとうとう腹に据えかねた様子で食って掛かろうと立ち上がったものの……。
「ウリエル……」
「皆まで言うな、わぁってるよ……。あのな、優奈。もう知ってるかもしれねぇがこの天界は二度壊滅しかけたコトがあったんだ。一人の天使の叛逆によってな」
 やがて、途中で思い直した様子で再び着席すると、ガブリエル様に諭されるようにして今度は私の方へ向き直って話を続けてきた。
「…………」
「その“彼女”の名は熾天使ルシフェル。明けの明星の異名を持ち、天界史上でも比類なき美しさと無限にも等しい神霊力を有し、神に最も近い存在と呼ばれた天使です。そして……」
「……かつて、あたし達がお側に仕えていた先代の熾天使、でもあるかな」
 そう言って、「まだ、あの頃はみんなまだ下っ端だったけど」と付け加えるガブリエル様。
「ルシフェル……ええまぁ、天界史の教科書に載ってましたけど、生前から聞いたことありましたよ。まぁ天使というより叛逆者とか堕天使の代名詞みたいな感じで」
 付け加えるなら、所謂”中二病”なコ達のアイコンとして、発症気配のあった愛奈ちゃんも「空けの明星」をプレーヤー名につけていた時期があった様な。
「あーまぁ、そうだね……結果的にそうなっちゃったというか……」
「熾天使ルシフェルはあまりに偉大で特異な存在の天使でした。“主”の代行者として信頼を最も厚く受けたと言われ、天界の民や数多くの天使達にも慕われ……それ故に、己が天使に甘んじ続ける事を良しとせず、いつしか自らが唯一神になり代わろうと考え始めたのです」
「それで、叛乱を?」
「……ああ、やがてアイツは賛同する多数の天使達と共に蜂起し、“主”へ謀反を起こしたんだ。その勢力は、新時代を望む若い中級天使層を中心に天使軍の半数近くに及んだ」
「半数近くも……?」
「果たして戦況は膠着したまま、遂にルシフェルはエデンの塔中枢にある“主”の玉座近くまで辿り着き、後一歩の所まで迫ったのですが……その土壇場で信頼していた腹心の裏切りに遭って討ち取られたのです。それが……」
「ミカエル様をはじめとする現在の熾天使(セラフィム)の皆さん方、でしたよね」
「ああ。そんで正義の名の下に“主”と天界を護った真なる天使として、下級第二位(アークエンジェル)に過ぎなかった俺達は、ルシフェルの後釜として一気に最高位の熾天使(セラフィム)に任命された」
「天界史上でも類の無い昇進でしたが、天を掴み取るというルシフェルからの約束がこんな形で果たされるとは、全く皮肉というほか在りません」
「なるほど、そうだったんですね……少し繋がってきましたよ」
 つまり、それが今朝に言われた通常では有り得ない出世をした戦時下のアヤ、と。
「あたし達もさ、ルシフェル様に心酔していた大勢の一人だったけど、それでも“主”への反逆には違和感を覚えてた。なかなか出世できずに燻っていたあたし達を下級天使に置くべき存在じゃないと見出してくれた一方で、天使は己の為に動く存在にあらずという原則を持ち合わせていなかったのがずっと引っ掛かっていたから……」
「清々しいくらいに自分がやりたいからやるだけ、というヤツだったからな。……ま、そういう処が抑圧されて内心に不満を溜め込んでいた若い天使達からの共感を呼んでたんだが」
「……でも、結局皆さんは共感しきれなかったと」
 それで、最後は秩序を取り戻す道を選んだのは御立派でしたと安易に称えるのは簡単だけど、相当な葛藤はあったのだろう。
 ましてや、誰よりも自分達を評価してくれていた人物なのだから……。
「……あれ、それじゃもしかして今夜のミカエル様が荒れてるのって……」
「流石、聡明ですね。……ええ、そんな我々の中でも誰よりルシフェルを思慕していたのがミカエルでした」
 そして、そこからいつもよりもダメダメさが増している今宵の師匠との繋がりを直感した私が独り言のように呟くと、ラファエル様が儚げな笑みを浮かべて肯定してきた。
「あー、やっぱり……」
 まぁ、飲んだくれているのはいつもの事としても、私の補習を放置してまでというのは流石に違和感だったけれど、今日という日にそんな意味が。
「結局、ルシフェルの胸に神罰の刃を突き立てたのは、他でもないアイツでな……無論、後悔などあるワケもなかろうが、まぁ辛い役割を負う羽目にはなっちまったのは間違いねぇだろうよ」
「…………」
「んでさー、このお話はもう少し続きがあってね?……これはまだ一部にしか知らされていないから、優奈ちゃんの心の中だけに留めておいて欲しいんだけど」
 そこで、どんな言葉を返したらいいか困って黙り込んでしまった私へ、ガブリエル様が身を乗り出してきて内緒話でもする様な話を続けてくる。
「はい?」
「あのね、ミカエルが仕留めたとは言ったけど、ルシフェルは極めて特別な成り立ちの天使でさ、実際には一旦無力化出来ただけで完全に滅ぼせてはいないし、また処分にも凄く難しい存在だったの」
「すごく、難しいとは?」
「……まぁ、ルシフェルの生い立ちは天使軍の機密事項なんで、優奈ちゃんも自分で知る権利を得てから調べてみてよ」
「ふん、機密事項という割には、堕天使連中にはすっかり知れ渡っちまったみたいだがな?」
「それは、致し方ないでしょう。ルシフェルに与した者の中でも彼女が何者かを知っていたのは我々を含めてごく僅かでしたが、その彼らが軒並み魔界へ墜とされましたから」
「魔界へ……」
「ええ、神に刃向かった天使がどの様な末路を迎えるかは、優奈さんも最初に学びましたよね?」
「あー、はい……翼はそのままで神霊力を全て剥奪されて魔界へと追放される、いわゆる堕天使落ち、でしたっけ」
 様々な名目と、そして意図が込められた上で天使軍に死罪は存在しないので、天使にとっての一番重い罰が、”主”の神霊力が決して届かぬ漆黒の世界であり、代わりに禍々しくも強大な魔力を持つ魔族の支配する魔界への追放。
 ……そして、天界とは決して相容れず天使は忌み嫌われる永遠の敵対世界である魔界で、無力化された“堕天使”が生き残れる可能性は限りなく低いから、実質は死罪も同然らしいけれど。
「ああ、それでも一応は天使裁判にかけられて罰が決まるんだが、内乱を引き起こした首謀者であるルシフェルはどう足掻こうが極刑は否めねぇはずだった。……もしも、土壇場で裏切らなきゃ俺達も同じく、だったろうが」
「けど、その言い分では何やら通常ではないお裁きに?」
「んーまぁ、裁き自体は翼を無力化させた後に天界から追放、以外に議論の余地も無いとして、ただ神に最も近しい存在だったルシフェルは他の咎人みたいにさっさと魔界へ落としてしまおう、とはいかなくてね?」
「ええ、あまりに特殊な生い立ちに加えて人望も極めて高かった彼女は、落とした先の魔界の秩序を破壊するだけでなく、ともすれば新たな魔王として再び天界の脅威となり得る可能性もありましたから」
「新たな、魔王に……」
「んで、いっそ凍らせたままエデンの塔の最下層にでも封印する?という案も出て揺れたんだけどね、天使軍を二分して叛逆戦争まで引き起こした危険極まりない魂を天界に留めておくのには、上の方からの強い懸念と反発があって、結局は追放される結論になった、けど……」
「けど?」
「それでもルシフェルをそのまま魔界へ送るわけにはいかず、追放の際に転送事故に見せかけて人間界へ飛ばしたのです」
「え……?」
 そして、どうしてそこまでルシフェルの扱いに困っていたのかを知らされないまま、目を伏せたラファエル様から衝撃の結末を告げられ……。
「しかも、飛ばされた先は優奈ちゃんの生まれた街」
「はい……?!」
 思わず目を丸くした私へ、更にガブリエル様から追い打ちがかかる。
「天界と魔界の双方から繋がっている中立世界の人間界じゃ天使軍と魔軍との衝突は極力避ける様に協定が結ばれていてな。あそこなら天界から追放した後で睨みを利かせていれば、直ちに堕天使連中の手に落ちることは無い、という折衷案のつもりだった」
「そうやって時間を稼ぐ間に最終的な処遇を決めようという、まぁその場凌ぎの一手でしたが、とにかく一刻も早く天界から叩き出せと評議員たちが煩かったもので」
「いやいやいや……」
 それが一体いつの話なのか存じ上げないものの、また何という爆弾投下みたいなお話を。
「ただ、思ってたより相手が本気だったから色々大変だったみたいだけど……監視を担当した責任者がミカエルでね?」
「へ……?」
 そこで、熾天使様たちに言っても仕方がないのだろうけど文句の一つも言いたくなった私だったものの、真顔でそう続けてきたガブリエル様に言葉を止められる私。
「まぁそれ以上の適任者は居ねぇだろと言われればそうだが、また皮肉な役目を負わされてなぁ」
「えっと、それで結局どうなったんです?」
「んー、話せば長いから端折るけど、何だかんだあって今は人間界で守備天使をやってる。……落とされた先で出逢った御影神社の跡取り娘さんのね」
「え、つまり天使に復帰したってコトですか?いやそれより……」
「……お察しの通り、現在のルシフェルは野心という牙をもがれた、ある意味腑抜けの身。尤も、それが人間の少女に篭絡されてというのも驚きですが、お陰で当面の懸念は全て払拭されました。まぁ七大天使だから出来る乱暴極まりないやり口だったとしても」
「……でも、それじゃ……」
「ああ、ルシフェルに天使の原則を思い出させようと裏で糸を引いていたハニエルの奴に言わせりゃこれでめでたしだろうが、ミカエルにはとっちゃそれじゃ割り切れねぇわな」
「…………」
 愛奈ちゃん以外の出逢いなんて特に求めていなかった私は参拝に行った記憶は殆ど無いものの、御影神社といえば昔から縁結びで有名な神社で、そういえばいつしか外国人の巫女さんが住み込みで入ったと噂になってたっけ。
 それで、友達と野次馬に行った愛奈ちゃんから銀髪が綺麗なすっごい美人さんだったと興奮気味に教えられて少しばかり嫉妬も覚えてたけど、さぞかしミカエル様も脳を焼かれ続けたんだろうなと。
「まぁでも、ミカエルは気の毒だったけど、確かにこれが最適解だったと言わざるをえないのもね……」
「……魔界政府からもルシフェルを魔界へ送り込むのはやめろと圧力がかかっていたそうですし、下手をすれば新たな戦の火種となっていたかもしれません」
「そうなれば、まずは俺達が矢面に立って戦わなきゃならない、ってのは別に構わねぇが、今は魔界とドンパチなんざとても出来ない情勢だからな」
「まー、その時は天使軍の弱体化を招いた元凶としての責務を負わなきゃならないだろうけど、それでも減らせて一万くらいだろうし」
「ふん、俺なら軽く五万は行けるな。それでも焼け石に水だろうが」
「……いやいや、そんな物騒な張り合いせずとも皆様がたの強さは分かりましたけど……でも、天使軍全体で見れば随分と人手不足ってコトなんですね?」
「おうよ、全盛期は天使軍一億……は流石に盛ってるだろうが、とにかくそこから今は百万もいねぇからな」
「まず、大昔に魔軍が天界へ攻め込んだきたのを総力戦で食い止めた大戦が起こり、具体的な数字は分かりませんがその際に両軍の兵力がごっそりと減ってしまったと言われています」
「……そして、そこから建て直しを図っていた道半ばで、今度はルシフェルが天使軍を二分する大規模な内乱を起こし、天使同士の戦となったこの時は生き残った後に追放された者達も含めて半数近くが失われました。……無論、彼女に加担した我々の罪でもありますが」
「んで、魔界の方はこっちが内乱やってる間にとある魔王が統一政府を築くコトに成功して、その後は魔軍も分かり易く再編成されて順調に再建が進んでるみたいでな、公表はしてねぇが今じゃ結構な戦力差になってるって報告もある」
「それで窮するあまり、近年は天使適正のありそうな人間界の住人の魂にまでスカウトの手を広げてるってワケ」
「ああ、それで今度は私に繋がるんですか……まぁ、大体事情は呑み込めました」
 ただ、適性があると言われても、私は心の赴くままに生きてきただけなんだけど。
「一応、余程のコトが無い限りは魔軍との大規模な衝突は当面起こらない筈ですが、逆に倒す敵がいなくなった時代になれば、養成機関で内部競争させるしかないのですよ」
「……うーん……」
 それは理屈として理解出来るんだけど、なんていうかやっぱり天使ってのは……。
「およ?優奈ちゃん、まだ納得してない様子ー?」
「んー、今朝に同じことをクラスメートにも言いましたけど、天使ってのはもっと純粋な慈愛に溢れているものだと思ってたので……」
 たとえば、大切な人の守護天使になるとか……ね。
「ま、確かに昔はそんな時代もあったが、今はしゃーないわな」
 そういう意味だと、自分的には仲間に呆れられようが未だ想いを引きずって感傷的に飲んだくれてしまうミカエル様への好感度アップって印象なんだけど……。
「……まぁでも、ミカエル様には悪いですが、“主”への忠誠を誓って翼を授けて貰ったにもかかわらず、自分のチカラを過信して神に成り代わろうとか、とんだモンスター天使も出てきたものですねぇ」
「ええ、優秀なのは良いですが、自分の目に映る全てがクズに見えてしまう程なのも考え物という事ですね」
 ともあれ、続けてその相手となったルシフェルへの正直な感想を苦笑い交じりに呟くと、まずはラファエル様が淡々と毒混じりに応じてきた後で……。
「お前にゃいい反面教師になったな、ラファエル?」
「生憎、私は現在の天界に絶望などしていませんし、全てが須らく自らの思い通りになると考えていた彼女よりも幾分かは賢いつもりです」
「けど、そんなこんなでルシフェルの天使時代は天界評議会に何かと目の仇にされてジャマもされていたからねー。今じゃ口が裂けても公言出来ないけど、傍で付き従っていたあたし達にとってはあれでも公平で優しさもある素敵なボスだったのも確かなの」
 続けて、ガブリエル様が反逆者となった昔の上司を偲んで溜息を吐いた。
「天界評議会……」
「そう。優奈ちゃん、天界評議会については学校(エンジェリウム)で習ってるよねー?」
「あ、は、はい……“主”に代わり天界の運営を代行する意思決定機関、です……」
 それから、思わずぽつりと呟いてしまったのをきっかけにガブリエル様から復習問題を振られ、慌てて記憶を辿って答える私。
 天界評議会とは、直接に政(まつりごと)を執らない“主”に代行して合議制で政権運営を行っている、いわゆる天界の議会のこと。
 ただ、議会という割に議員の選出は世襲制で、そのメンバーも謎に包まれている胡散臭い機関だけど、評議会での決定は絶対なもので、天界のあらゆる組織の上に君臨しているんだとか。
「天使軍も一部の例外を除けば評議会の下部組織に位置付けられていてな、アイツらは何かと目の上のタンコブみてぇな存在だが、実際に好き勝手言ってきやがるんだ。まぁぶっちゃけ、ルシフェルに賛同した天使が思いの他多かったのも、“主”より評議会への積もり積もったヘイトもある」
「ええ、当時の我々が功績は挙げていたにも関わらず昇格出来なかったのも、評議会に睨まれていた彼女の腹心だったからですし……」
「だから、熾天使(セラフィム)になったのはいいけど、最初は陰口も酷かったよねー?出世の為にあの最高のタイミングを狙っていたんだろうって。……まぁ、そーいうコト言ってた連中はミカエルが大体粛清しちゃったけど」
「あはは、やっぱり苦労されていたんですね……でも、一部の例外?」
 天使軍が評議会の支配下にあるのは確かに習ったけど、例外があるのは初耳だった。
「ああ、殆どの天使軍に所属する天使は俺たち熾天使(セラフィム)やその上の評議会の統制下に置かれているんだが、しかしそれらのコントロールから外れた“主”直属の例外的な連中もいる」
「……彼、もしくは彼女らは直属組、もしくは“真なる代行者”と呼ばれているんですが、うちの一つが“主”の玉座を護る七大天使達です」
「優奈ちゃんも会ったことはあるでしょー?七大天使」
「……ああ、もしかしてエデンの塔の入り口に出てきた七人の天使のコトですか?なんか特徴的な口癖の女の子とかいましたけど」
 確か、だわさだわさ言って魂状態で喋れる様にしてくれた天使様。
「ああ、智慧を司るザフキエルな。あれで“主”の参謀的な存在だが、まぁそいつらだ」
「七大天使の役割はエデンの塔とその中枢に安座する神霊を護る事なんだけど、その他に“主”の為に自らの判断で自由に行動する権利も与えられていて、今まであたし達に相談も無く軍勢を動かしたコトはないとしても、実質的に持っている権限はあちらの方が上なのよねー……」
「ま、評議会の連中よりは遥かにマシだが、あいつらにもいけ好かねぇ部分はあるよな?」
「一応は彼らのお陰で、ミカエルから致命傷を受けた後にエデンの塔ごと“主”の御霊を道連れにしようとしたルシフェルの企みは防がれましたが、逆に言えばそれだけですからね」
「はぁ……」
 熾天使(セラフィム)に評議会に七大天使……。
 何やらそれぞれに相容れない組織の軋みがあるみたいだし、思ったより全然面倒くさいなぁ、天使って……。
「……んで、実は更に我々や七大天使達のどちらの影響も受けない孤高の存在がいる、いや今は“いた”というべきかもしらんが、そいつこそが……」
「えー、まだあるんですか……」
 そして、更にウリエル様が新しい話を続けようとするも、とうとう私は泣きを入れてしまった。
「あはは、まだそのハナシはいいでしょ?洪水みたく一度に浴びせちゃったし、今宵の講義はここまでにしときましょうか」
「……んだな、俺らも“あっち”側の連中の話なんざ、喋ってて楽しいもんでもねぇし」
(いや、私がウンザリとしてきたのはそうじゃなくて……)
 まぁ、いいか。……とにかく、今日はこれでお開きにしてもらうのに異存はないし。
「それじゃ、私はテラスへ行ってみることにしますね。本日もありがとうございましたー!」
 ともあれ、そろそろミカエル様の様子が気になっていた私は、勢いよくソファーから立ち上がって特別講師のお三方へ向けて深々と頭を下げる。
「……ああ、その前にもう一つだけよろしいですか?天衣優奈さん」
 しかし、そこから踵を返したところで、ラファエル様からフルネームで呼び止められてしまった。
「あーはい、なにか……?」
「人間だった生前、貴女に愛する者はいましたか?」
「ええ、まぁ……」
 そこで仕方なく一旦足を止めて振り返ると、いきなり突拍子も無い質問を振られ、反応に困りつつ曖昧な返事をする私。
 ……というか、ナイショで今も現在進行形ですが。
「では、その者が過ちを犯した時、あるいは犯そうとした際に、貴女はどうしました?」
「えっと……それはもちろん、手遅れになる前に叱ってしっかりお仕置きもしましたよ?本人の為にもなりませんし……」
 そして答えるついでに、愛奈ちゃんに昔行った、ちょっぴりHなお仕置きのコトも思い出す。
 大切な妹の為に心を鬼にした罰だったけれど、羞恥に身を震わせながら切ない表情で必死に耐えていたあの顔とかもう……。
「……おい、顔面を緩ませやがったぞ、コイツ」
「あー、やっぱりあたしと同類さんだ、このコ……」
「いや、えっと……それで、結局それがどうかしましたか、ラファエル様?」
 それから、揃ってのツッコミを浴びせられた私が慌てて表情を戻して真意を訊ねるものの。
「……いえ、分かりました。私もそれが正しいと思いますよ?」
 ラファエル様はただ納得した様子で、文字通りの天使の笑み(エンジェリック・スマイル)を見せてくるだけだった。

                    *

(わぁ、綺麗……)
 やがて、ラファエル様たちと別れてリビングからテラスへ静かに入ると、視界の先に広がる満天の星空にまずは釘付けにされてしまう私。
 残念ながら、この空の向こうと愛奈ちゃんのいる故郷とは繋がっていないけれど、それでも煌きに溢れた星海の美しさはこちらも変わらない。
 ……ってのは、とりあえず置いておくとして。
「ミカエル様ー?まさか酔いつぶれて立ったまま眠ってませんよね?」
「……なぁに、もう墓荒らしの講義は終わったのぉ?」
 私はすぐに見上げていた視線を戻し、それから広くて絶景なテラスの端っこでボトルを片手に柵へ寄りかかっていた目当ての姿を発見するや、敢えてデリカシーという言葉を封印してスタスタと歩み寄っていくと、ミカエル様は面倒くさそうに顔を上げて応じてくる。
「ええ、とりあえず大体のコトはざっくりと聞きました」
「そう。……それで、あなたはどうしてここに?」
「……いやまぁ、何となく来ちゃいましたって感じで」
 励まそうとか傷心だろうから慰めたいとか、そんなおこがましい気持ちでもなくて、なんだか無性にミカエル様の顔が見たくなってしまったというか。
「…………」
 すると、「恋人気取りか」なんてツッコミは貰えなかった代わりに、ミカエル様は厭うことも歓迎することもない沈黙で返したかと思うと……。
「……ね、優奈。天使ってのは“主”の僕だから、仕えた神以上に他の誰かを愛することは許されないの」
 やがて、私から視線を外して星空へ顔を上げ、ぽつりとそんな言葉を切り出してきた。
「まぁ、そうみたいですねー」
 今後、それが私にとって最大の壁になりそうな予感はするけれど。
「だから、もしも他の誰より慕っていた相手が叛逆者で……そして逆賊を討ち取る千載一遇の機会が自分達に訪れたとしたら、天使として躊躇うのは許されない」
「正しく、天使の鑑ってトコロですか。……やっぱり、使命感がそうさせたと?」
「……さーね、実は自分でもよく覚えてないの。どうしてあの場であの方を討とうと考え、そしてみんなに号令を出して実行に移してしまったのか」
 それから、半分皮肉で半分は真面目に尋ねた私へ、ミカエル様は見上げたまま自虐めいた笑みを見せて答えた。
「ミカエル様……?」
「まー、門番のケルビム達を蹴散らしてエデンの塔へ乗り込み、中枢への入り口を護る“主”の切り札も破壊して勝利宣言をしたまでは良かったんだけど、実際は天界最強の決戦兵器を相手にほぼ相打ちと言っていい有様だったから、その奥で待ち構える七大天使を相手に勝ち残るのはほぼ不可能かな、とは思っていたんだけどね」
「だったら、いっそ愛する自分の手で……ですか?」
「まぁ、そうかもしれないし、“主”の喉もとまで迫って沸き立っていたルシフェル軍でおそらく最初に敗北を予感したのが自分だったから、敗戦後に待つ粛清の嵐からガブリエル達を守るにはそれしかないと考えたのかもしれないし……」
「結果、極刑逃れどころか英傑として熾天使(セラフィム)に昇進ですから、嫌味じゃなくて心から超ファインプレーだったと思いますよ?まぁ陰口は叩かれたとしても」
「……確かに、熾天使といえば翼を纏う者なら誰しも憧れる頂点だし、秩序を壊そうとした逆賊としてこちらに正義なんて無かったのだから、難しい選択でもなかったはず。ただ……」
「ただ、こうして特別な日に飲んだくれて感傷に浸ってしまう程度には引きずっている、と?」
「……なんだか今夜はグイグイと来るわね?大事な補習をサボったのを恨んでいるのかしら」
「んー、むしろ逆なんですけど……」
 何だかんだで、私がこの大天使様に預けられたのも、神さまの意思というよりも運命という名の「縁」なのかもしれないと思い始めているし。
 だって……。
「なによ、それ……」
「まぁとにかく、他の皆さんも帰られたでしょうし、そろそろ戻ってお風呂にでも入って眠ってしまいませんか?寂しいのならご一緒してお背中流したり、何ならまた抱き枕にしてもらっても構いませんし」
 そもそも、今朝は出勤前にシャワーを浴びさせるコトが出来なかったので、今夜は付き添ってでもお風呂に入ってもらわなきゃ困るわけで。
「……ホント、熾天使の長を掴まえて慣れなれしいわね……」
「実は、私も何だか寂しい心地なんですよー……えへへ」
 ……既に取り戻せないのは分かっていながらも未だ想いを燻らせてしまうあたり、どうやら本当に似たもの同士みたいですから、私達。

次のページへ 前のページへ 戻る